バイブル・エッセイ(757)永遠の命に続く道


永遠の命に続く道
「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ10:37-39)
「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得る」とイエスは言います。矛盾しているようにも思えますが、この言葉はわたしたちに人生の一つの真理を教えてくれているように思います。自分ことだけを考えて生きるとき、わたしたちは欲望に溺れて道を見失い、家族や友人、共に生きるすべての人々のことを考えて生きるとき、わたしたちは愛に導かれて永遠の命に到達するのです。自分の欲望を満たすことばかり考えているとき、わたしたちは生きているように見えて死んでおり、人々のために自分の命を差し出すとき、わたしたちは本当の命を生きることができるのです。
 この言葉を味わいながら思い出したのは渡辺和子さんのことです。昨年の大晦日、「渡辺和子さんが亡くなった」という知らせを聞いたわたしは、驚きの中で岡山の修道院に駆けつけました。渡辺さんのご遺体と対面したとき、そのお顔を拝見して、わたしは「本当に渡辺さんらしい」と思いました。その死に顔は、いわゆる「安らかなお顔」ではなく、すべてのことをやり尽くして、すっかり力が抜けたというような顔だったのです。「やるべきことは、もうすべてやりました」と顔に書いてあるようでした。
 渡辺さんは、もしかすると自分が死ぬということを考えていなかったのかもしれません。「死んだ後どうなるだろうか」と自分の命のことを心配しているような時間は、渡辺さんにはなかったのです。どんなときでも、神さまから自分に与えられた使命のことを考え、そのために全力を尽くすのが渡辺さんでした。まるでパウロのように、自分に与えられた使命を全力で走り抜き、天国に駆け込んでいった。そんな気がします。渡辺さんは、死の恐れに支配されることなく、最期の瞬間まで、自由な心で神の愛を生きた方だったのです。
 わたしたちにとって生きるとは、神から与えられた使命、愛の使命を全力で果たすということに他なりません。そのために必要なのは、常に神と向かい合い、神から与えられている使命を確認すること。その使命を果たすための力を、神に願い求め続けることだろうと思います。過去のことをくよくよしたり、将来のことを心配している暇などないのです。
 過去のこと忘れようとしたり、将来のことを考えないようにしたりする必要はありません。そんなことをすれば、ますます過去のことが思い出され、将来のことが心配になるでしょう。「いま、この瞬間に自分は何をすべきか」という問いに気持ちを集中すれば、過去のことや将来のことを考えている暇などなくなるはずです。常に神と向かい合い、いま自分がすべきことに集中する。それが、よく生きるための秘訣だと言っていいでしょう。渡辺和子さんに倣って、わたしたちも、永遠の命へと続く道をまっすぐに進んでゆきたいと思います。