バイブル・エッセイ(110)思い巡らす


  天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。(ルカ2:15-19)

 マリアは、イエスの誕生に至るまでに自分の身に起こったすべての出来事をすべて心に納め、思い巡らしてていました。1年の節目に当たって、わたしたちもマリアにならって、この1年間にわたしたちの身に起こったすべての出来事を深く心に納め、思い巡らしたいものだと思います。
 思い巡らすとは一体どういうことでしょうか。それは、単に人間的な次元で考えるということではないと思います。人間的な次元で考えるというのは、例えばうれしいことがあったら自分はなんて幸運なんだろうと自分の運の強さに感謝したり、自分はなんて優れているんだろうと思って傲慢になったりすること、悲しいことがあったら自分はなんてダメな人間なんだろうと自分を責めたり、逆に周りの人たちが悪いんだと周りを責めたりすることです。そのように考えている限り、わたしたちは心の表面で出来事を受け止め、心の表面を通過させているだけだと思います。
 思い巡らすとは、そういうことではないと思います。思い巡らすというのは、起こった出来事の本当の意味を思い巡らし、神にその意味を問いかけるということでしょう。その出来事を通して神様が語っておられる言葉に耳を傾け、出来事の向こう側を見通すこと、それがマリアの思い巡らしだと思います。うれしいことがあったらその出来事を通して「あなたは本当に大切なんだよ」と言ってくださっている神の言葉を聴き、悲しいことがあったらその出来事の中で「どんなときでもわたしは傍にいるよ」と言ってくださっている神の声を聴くこと、それが思い巡らすということだと思います。
 思い巡らさないならば、どんな出来事もわたしたちの心の表面を通過していくだけです。逆に、思い巡らすならば、すべての出来事は神からの愛のメッセージとしてわたしたちの心の奥深くに刻み込まれ、決して過ぎ去っていくことがありません。そのメッセージは、どんなときでもわたしたちを離れることがない自信と力の源になるでしょう。マリアにならって昨年1年間の出来事を深く思い巡らし、「神の子」としての自信と力に満たされて新しい1年を歩み始めたいものです。
※写真の解説…朝の光に輝く神戸の街。元日、灘円山公園にて。