バイブル・エッセイ(944)寄り添う母マリア

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寄り添う母マリア

 羊飼いたちは急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、彼らは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。(ルカ2:16-21)

 羊飼いたちがイエスを訪ね、天使たちの不思議なお告げについて語ったとき、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」とルカ福音書は記しています。羊飼いたちはきっと、「この子はいったい、どれほどすごい人物になるのだろう。この子の将来が楽しみだ」などと、口々にイエスを称賛したでしょう。マリアは、それらの言葉をイエスの傍らで聞き、「心に納めて、思い巡らしていた」のです。

 自分の息子が人々から称賛されているとき、母親はどうするでしょう。息子を誇りに思い、そんな息子を生んだことを自慢する母親もいるでしょう。こんな息子を生んで、鼻高々という感じです。逆に、息子が思い上がって失敗したり、妬まれて攻撃されたりしないかと心配する母親もいるかもしれません。マリアの心にも、きっと様々な思いが去来したに違いありません。ですがマリアは、思い上がることも、不安に陥ることもなく、「すべてを心に納めて、思い巡らし」ました。我が子を神の手に委ね、すべてを神が一番よくしてくださるようにと祈り続けたのです。

 マリアのこのような姿勢は、終生変わることがありませんでした。大人になったイエスが十字架につけられて処刑されるときにも、マリアはイエスの傍らに寄り添い続けたのです。目の前で息子が罵られ、鞭打たれ、処刑されてゆくのを見たら、母親はどうするでしょう。その場で泣き崩れたり、見ていられなくなってその場から立ち去ったりする母親もいるかもしれません。マリアの心も、深い悲しみや苦しみで満たされたことでしょう。ですが、マリアは決して絶望することがありませんでした。すべてを「心に納め、思い巡らし」ながら、十字架の傍らでイエスのために祈り続けたのです。

 イエスに寄り添い続けた「神の母」マリアは、わたしたちの母でもあります。わたしたちは日々「今も、死を迎えるときもわたしたちのためにお祈りください」とマリアに願いますが、わたしたちの母であるマリアは、わたしたちがアヴェ・マリアを唱える、唱えないにかかわらず、どんなときでもわたしたちのそばにいて、わたしたちのために祈ってくださっています。わたしたちが祈るのを忘れたときや、絶望してもう祈る気力さえなくなったとき、死に直面してもう祈る力さえ残っていないとき、あらゆる場面でマリアはわたしたちの傍らにいて、わたしたちのために祈ってくださっているのです。

 これは、わたしたちにとって本当に大きな慰めであり、心の支えだと思います。新型コロナウイルスに感染すると、家族でさえその方の最期に立ち会うことができないと言われています。ですが、そのようにして亡くなる方の側にも、マリアは必ずいてくださいます。もしわたしたちが感染し、家族と会えないまま死んでゆくことになったとしても、マリアは必ずわたしたちの側にいてくださるのです。コロナ禍の中で、本当に何が起こるか分からない毎日ですが、何も心配する必要はありません。マリアと共に、すべてを神様の手に委ね、神様がすべてを一番よくしてくださると信じて祈り続けましょう。