バイブル・エッセイ(150)故郷では敬われない


エスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。(マタイ15:53-58)
 イエスのことをよく知っているはずの故郷の人たちの方が、かえってイエスを敬わない。なぜでしょうか。それは、彼らがイエスについて思い込みをたくさん持っていたからだろうと思います。「あいつは大工だから知識があるはずがない」、「あのマリアの息子が預言者のはずがない」、そのような思い込みが彼らの目を塞ぎ、目の前にいる救い主を見えなくしてしまったのでしょう。
 わたしたちも、この人たちと同じようなことをしていないでしょうか。「あの人は昔こんなことをした人だから」、「この人はわたしの敵だから」などと決めつけて、身近にいる人に心を閉ざしてしまうことがないでしょうか。そうやって心を閉ざしてしまった人の中にイエスがおられ、その人を通してわたしたちに語りかけていたのに、気づかずに無視してしまったことがないでしょうか。
 思い込みを捨て、その相手に心を開いたとき、実はその人の中にイエスがおられたのだと気づかされることがたびたびあります。「わたしの方がたくさんの知識を持っているから」、「わたしの方が正しい判断ができるから」などという思い込みを捨てて謙虚に相手の言葉に耳を傾けたとき、思いがけない和解や予想もしなかったような友情に導かれることがたびたびあります。それは、まるで奇跡のような出来事です。
 思い込みを捨て、目の前にいるその人に心を開けば、その相手を通してイエスがわたしたちに話しかけてくださるかもしれない。どんなときでも、その可能性を否定しないだけの謙虚さを持ちたいものです。そう心がけるだけで、わたしたちの人生は、たくさんの奇跡に満たされた恵み豊かな人生に変えられていくかもしれません。
※写真の解説…生田川上流にて。