マザー・テレサの言葉を読む(29)完全な自己放棄


キリストへの愛、キリストのそばにいる喜び、キリストの愛への自己放棄、それらこそがわたしたちの祈りなのです。祈りは完全な自己放棄、キリストとの一致以外の何ものでもないからです。
 祈りとは「完全な自己放棄、キリストとの一致以外の何ものでもない」とマザーは言います。祈りの中でイエス・キリストの愛に満たされるためには自己放棄が不可欠だと、マザーは考えていたようです。自己放棄とキリストとの一致、この2つはどう結びつくのでしょうか。
 祈りの中で自分の思いを一つひとつイエスに委ね、手放していくとき、わたしたちの心に少しずつ「空っぽ」の場所が生まれます。たとえば、あの人が憎いという思いを「裁きをあなたに委ねます」と言ってイエスに委ねたとき、このままでは自分の人生はおしまいだという思いを「わたしの人生をあなたに委ねます」と言ってイエスに委ねたとき、わたしたちの心に自分から解放された空間が生まれるのです。
 そのような空間が生まれたとき、神はそこにイエス・キリストの霊を注ぎこんでくださいます。マイスター・エックハルトの言葉を借りて言うなら、まるで真空が生じるとそこに空気が吸い込まれていくように、心が空になると神はその空間に愛の霊を送らずにいられないのです。自己放棄とイエスとの一致は、この原理によって一つのことになります。自己放棄とイエス・キリストとの一致、聖霊の体験は一つのことなのです。
 自己放棄によって祈りの中でイエス・キリストと一致すること、それこそがキリスト教の祈りであり、救いだと言えます。これはとても逆説的な救いです。人間的な思いで言えば、救いとは自分の思いのままに物事が動くこと、自分で自分の将来を決められることでしょう。しかし、キリスト教の救いとはそれと正反対に、自分の思いを手放し、すべてを神の手に委ねたときに与えられる救いなのです。
 救いの頂点に十字架があります。イエスが神への愛ゆえに十字架上で自分の命さえ差し出し、完全に空になったとき、全人類を救って余りあるほど完全な神の愛がイエスの心を満たしました。それこそがわたしたちの目指す完全な救いなのです。
 日々の祈りの中で、わたしたちはこの完全な救いを目指して歩き続けます。祈りとは、自己放棄によって日々神の愛に自分を明け渡していくこと、そうすることで完全な救いへの道を一歩一歩進んでいくことに他ならないのです。