バイブル・エッセイ(151)愚かな金持ち


 エスは一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。(ルカ12:15-21)

 このお金持ちはその夜、突然に死が訪れたとき一体どんな思いがしたでしょうか。このお金持ちはこれまで、自分の力や蓄えた富でおもしろおかしく人生を乗り切ってきましたが、死を前にしてそれらはもはや何の役にも立ちません。きっと、自分を飲み込もうとする死の闇から逃れようと懸命にもがいたに違いないでしょう。彼のような生き方をしてきた人にとって、死は全てを奪い取る恐ろしい闇以外の何ものでもないのです。
 このお金持ちのようにならないためには、普段から自分を神に委ねて生きることだろうと思います。神の導きに信頼して、自分の将来を全て神に委ねている人。人がなんと言おうと神の愛を信じて疑わず、裁きを全て神に委ねる人。自分の時間やお金がなくなるかもしれないとしても、全てを神に委ねてそれを困っている隣人のために使う人。そのような普段から自分を神に委ねて生きている人たちにとって、自分の命を神に委ねる死は決して特別なことではありません。日々自分を神に委ねることで自分に死に、神の命に生かされて生きる人々にとって、肉体の死は日々の生活の延長線上にある一つの出来事にすぎないのです。
 神に全てを委ねて生きる人たちにとって、死は決して終わりでも闇でもありません。むしろ、ついに自分を余すところなく神に差し出して神の本当の命に結ばれる始まりであり、あたたかな光の中に包まれてく瞬間でしょう。突然に訪れる死を前にしてあわてふためくことがないように、普段から神に自分を委ね、豊かな神の命に満たされて生きたいものです。 
※写真の解説…太陽の光を一杯に浴びて咲くヒマワリ。