バイブル・エッセイ(465)天国への入り方


天国への入り方
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおりアブラハムとその子孫に対してとこしえに。」(ルカ1:46-55)
 今日祝う「聖母の被昇天の祭日」は、もともと「聖母の永眠の祭日」と呼ばれていました。もともとは、聖母の死を記念する祭日だったのです。4世紀ころに、罪の汚れのない生涯を送った聖母マリアは死んですぐ体ごと天に挙げられたという信心が確立し、「聖母の被昇天の祭日」が祝われるようになったと言われています。「聖母の被昇天」は、「無原罪の御宿り」に始まる聖母の汚れなき生涯の完成と言ってもいいでしょう。天に挙げられた聖母マリアは、イエス・キリストが開いた天の門を、身体ごとくぐった最初の人間となりました。聖母のあとに続くなら、わたしたちも一人残らず天国に入ることができるに違いありません。聖母は、わたしたちを天国へと導く案内人なのです。ですから今日のミサの中で死者たちを記念して祈ることには、大きな意味があります。聖母の後に続いて生きたすべての人は、聖母に導かれて天国に入ることができるのです。
 では、どうしたらわたしたちも聖母のあとに続くことができるのでしょう。「被昇天」という言葉に、その秘密が隠されています。聖母は、自力で天まで登ったのではなく、神の力によって天まで持ち上げられたのだということです。どんなに助走をつけて力いっぱい空に向かってジャンプしても、誰も天国まで届く人はいません。ですが、「こんな取るに足りない罪人のわたしに、すばらしい人生をありがとうございました」と感謝し、謙遜な心で自分の命を神の手に委ねるなら、わたしたちの体はふわふわと浮かび始め、天の高みへと挙げられてゆきます。それが、「被昇天」ということなのです。誰も、自分の力で天国に入ることができる人はいません。ただ、神を信じ、神にすべてを委ねる信仰によってのみ天国に入ることができるのです。
 天国の幸せを手に入れようとして財産や名誉、権力を蓄えたり、能力を磨いたりしても、自分の力で天国の幸せをつかむことができる人などいません。立派なことをして、大きな業績を上げ、人々から賞賛されたとしても、それだけで天国に入ることはできないのです。わたしたちを天国へと運んでくれるのは、ただ謙遜な心で神に自分のすべてを委ねる信仰だけです。地上で大成功し、権勢をふるっていた有名人たちをしり目に、誰からもほとんど知られないところで、神に自分のすべてを委ねて生きた無名の人たちの方がどんどん先に天国へと入ってゆく。それが天国です。天国に先に入るのは、自分の力で上にのし上がろうとする人たちではなく、神にすべてを委ねて謙遜に生きた人たちなのです。
 財産や、名誉、権力、能力などによって自分の力で天国の幸せを手に入れようとする人にとって、死は絶望的な結末です。自分の力で天国の幸せを掴もうとする人は、決して天国に入ることができないからです。いつでも手を放し、すべてを神に委ねることができるよう。神の力で天に挙げていただくことができるよう、聖母の執り成しを願って祈りましょう。