バイブル・エッセイ(194)種を育てる


種を育てる
 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」(マタイ13:3-9)
 おなじみの「種を蒔く人」のたとえ話が読まれました。いろいろな解釈ができますが、わたしはこの話が、どういう心でイエス・キリストの蒔く御言葉の種を受け止めたらいいのか、言い換えれば聖書の御言葉をどう祈ったらいいのかを教えてくれているように思います。
 道端はたくさんの人が行きかって騒がしい場所ですから、道端に落ちた種とは騒がしい心に落ちた御言葉を指しているように思えます。騒がしい心とは、祈っている途中でも「祈りが終わったらあれをしなきゃ」とか、「さっきあの人が言っていたことにどう反論しようか」、「今晩の食事は何にしようか」とか、そんなことばかり考えている心のことです。もし御言葉が心に落ちたとしても、すぐに「あれはどうだったかな」という思いがやって来てその御言葉をさらって行ってしまうでしょう。聖書を開いて祈るとき、ミサの中で御言葉を味わうとき、まず大切なのは心を静かにすることだと思います。
 浅い土に落ちた種とは、わたしたちの心の浅いところに落ちた御言葉のことでしょう。御言葉を読んで頭で理解し「ああわかった」と思ったとしても、頭だけの理解では生活に大きな変化の実りをつけるには至りません。御言葉を心の深みで受け止めるためには、さらに進んで御言葉を今、ここでイエスから自分に直接語りかけられた言葉として聞く必要があると思います。この言葉によってイエスはわたしに何を気づかせたいのか、何を訴えているのか、そのように思いめぐらすことで、御言葉はわたしたちの心の深みに落ちていきます。
 深みに落ちた種は、例えば回心の芽を出すかもしれません。祈りが終わったら、あの人のところに行って謝ろうというような気持がわたしたちの心に芽生えることもあります。ここで気をつけなければいけないのが茨です。財産や評判、あるいは自分自身への執着という茨が、せっかく生えた芽を押しつぶしてしまうことがあるからです。「でもよく考えれば自分の方が正しい。なぜわたしが謝らなければならないのか」、そういう思いが茨のように御言葉の芽を押しつぶしていきます。芽を育てるためには、そのような執着の茨を断ち切る必要があるでしょう。
 ここでイエスが教えてくれた祈りのレッスンは、①御言葉を静かな心で受け止めること、②頭ではなく心の深みでわかること、③伸びてくる執着を見つけ次第断ち切ることの三つだと言えるでしょう。豊かな実りをつけるために、日々の祈りの中で、ミサの中でこの教えを実践したいと思います。 
※写真の解説…京都、大原にて。あぜ道に咲いたシロツメクサ