バイブル・エッセイ(1006)神の子として生きる

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神の子として生きる

 そのとき、民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(ルカ3:15-16、21-22)

 洗礼を受けたイエスが祈っていると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたとルカは記しています。このとき、イエスは一体、何を祈っていたのでしょう。洗礼を受けることによって自分の人生に一つの区切りをつけたイエスは、神に何を問いかけ、何を願っていたのでしょう。

 さまざまな可能性がありますが、わたしはきっと、イエスの心の中にまだ迷いがあったのだと思います。洗礼を受けたとき、イエスはきっと、自分がメシアであることに気づいていたでしょう。しかし、同時に一人の青年として、「こんなわたしが、本当に神の子、メシアなのか。人々を救うことができるのか」という思いもあったはずです。それは、人間として当然のことだと思います。

 真摯に祈り求めるイエスに、父なる神は「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と声をかけました。「まだ信じられないかもしれないが、あなたは間違いなくわたしの子、メシアだ。人間としての弱さや欠点を抱えながら、それでもわたしの御旨のままに生きようとして祈り続けるあなたは、間違いなくわたしの心に適っている」。父なる神は、きっと、イエスにそう伝えたかったのでしょう。この言葉を聞いたとき、イエスの中に、「こんなわたしでも、父なる神は愛してくださる。父なる神の守りと導きを信じて、メシアとしての役割を果たそう」という思いが生まれた。わたしは、そんな風に想像します。こうして、謙虚な心で父なる神に自分を差し出し、父なる神の力に満たされて人々を救うわたしたちのメシア、イエス・キリストが誕生したのです。

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉は、迷っているわたしたちに聖霊が降るとき、必ずわたしたちの心に響く言葉。父なる神が、人間に一番伝えたいメッセージだとわたしは思います。あるがままの自分を神に差し出す真摯な祈りの中で、わたしたちの心を聖霊が満たすとき、この言葉がわたしたちの心にも響きます。ご自身も神であるイエスとは次元が違いますが、わたしたちも皆、神によって創られ、生まれてきた者として神の子であり、神に愛されているのです。

 そのことに気づくとき、わたしたちの心に、「こんな罪深いわたしでも、父なる神は愛してくださる。父なる神の守りと導きを信じ、神の子として生きてゆこう」という思いが生まれます。イエスにメシアとしての役割が与えられていたように、わたしたちも一人ひとり、神の子として貴い使命を与えられ、この世界に生まれてきました。「こんなわたしに、そんな大切な使命を果たす資格があるだろうか」などと迷う必要はありません。ただ、神の守りと導きを信じ、謙虚な心でその使命を果たせばよいのです。

 謙虚な心で神の前にひざまずき、祈り続ける限り、わたしたちが父なる神の御旨から外れることはありません。わたしたちの前に立って進むイエスの模範にならい、わたしたちも父の御旨を果たすために動き始めることができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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