バイブル・エッセイ(207)愛はゆるしの中に


愛はゆるしの中に
 ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(マタイ18:21-35)
 イエス様の話をそのまま読んで、「7の70倍、すなわち490回まではゆるせばいいんだ、よしそれまでじっと我慢しよう」と思ったら、それは大きな間違いだと思います。イエス様が言いたいのは、何回ゆるしたか忘れてしまうくらい、何度でも何度でもゆるしなさいということでしょう。心の底からゆるして、何回ゆるしたかさえ忘れてしまう、それが理想だと思います。
 ですが、人を心からゆるすということくらい難しいことはないでしょう。わたし自身も、日々の生活のなかで苦労しています。何とかゆるしたいと願って祈るうちに、最近思うようになったのは、「ゆるさない限り、救われることがない」ということです。なぜなら誰かをゆるして心から受け入れるとき、その人とわたしの間に愛が生まれ、その愛の中にイエス様がおられるからです。わたしたちの間に生まれる愛こそがイエス様であり、わたしたちの救いなのです。誰かと愛し合うとき、わたしたちの間に天国の門が開くと言ってもいいでしょう。
 逆に、相手をゆるさないなら、わたしたちの間には怒りや妬み、憎しみの炎が燃え上がります。そこにあるのは苦しみや痛み、人を打ち負かす優越感だけで、救いはどこにもありません。誰かをゆるさないなら、わたしたちの間に地獄の門が口をあけると言ってもいいでしょう。その人と出会うたびにわたしたちは地獄の炎に焼かれ、ひどいときは離れていても復讐のどす黒い情熱に駆られて地獄の苦しみを味わうことになります。ゆるさなかった家来を主人が牢に入れたと福音には書かれていますが、むしろ自分を苦しみの牢獄に放り込むのは自分自身なのです。
 誰かをゆるすとき、わたしたちの間に生まれた愛がわたしを救い、そして相手も救います。ですから、イエスから託された救いの使命を果たすためには、どうしてもゆるすことが必要なのです。ゆるすときにだけ、わたしたちの間に救い主イエス・キリストが来られ、わたしたちを救ってくださるからです。「主よ、どうかわたしたちの間に来て、わたしたちを救ってください」と祈りながら、ゆるしの道を歩んでゆきましょう。 
※写真の解説…「御聖体の宣教クララ会」軽井沢修道院の庭に咲いたニッコウキスゲ