バイブル・エッセイ(364)分かち合うための富


分ち合うための富
「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(ルカ16:1-13)
 不正な管理人がどのようにふるまったかを教会学校の子どもたちに分かりやすく説明し、いよいよ最後に主人の言葉を紹介したところ、子どもたちの口から一斉に「えー、おかしい!」という声が上がりました。実にもっともなことです。なぜ主人は、自分の財産を勝手に処分してしまった管理人をほめたのでしょう。イエスはなぜ「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」などと、不正な管理人をほめるようなことを言ったのでしょう。
 「この世の子」とは、地上での自分の利益だけを考えてふるまう、不正な管理人のような人のことでしょう。では、「光の子」とは誰のことでしょうか。それは、キリストの教えを信じ、神に自分を捧げて生きようとする人々のことだろうと思います。「この世の子」も「光の子」も、主人から財産の管理を委ねられています。単にお金だけでなく、健康や能力、地位、名誉など、私たちが持っているすべてのものは、自分のものではなく神様から預かったものなのです。イエスはこれを「不正な富」と言いますが、それはきっと、わたしたちが預けられたものを不正に使ってしまうことが多いからでしょう。貧しい人が隣にいるのを知りながら分かち合うことをせず、自分たちだけ豊かな生活をするとき、そこには不正の臭いが漂い始めます。いずれにしても、問われているのは神様から預かったものをどう使うかということです。
 不正な管理人は、主人から預かった富を使って、借金に苦しんでいる仲間たちを助けました。仲間に恩を売ることで、主人からすべてを取り上げられたときに助かろうとしたのです。そこに、地上の子の賢さがあります。キリストを信じて生きる「光の子」であるわたしたちは、神から預かったものをどう使っているでしょう。神から預かったお金や健康、能力などを、苦しんでいる仲間を助けるために使っているでしょうか。そうすることで、いつの日かすべてを取り上げられる日、すなわち死を迎えるときに備えているでしょうか。
 神から預かったものを、苦しんでいる仲間のために気前よく与えてしまう人を、神はゆるしてくださいます。もし与え尽くしたとしても、その人は「永遠の住まいに迎え入れてもらう」ことができるのです。逆に、預かった富を独り占めにし、仲間に与えない人を神はゆるしません。このたとえ話とそっくりな流れで、逆の結論を導く「恩知らずな家来」(マタイ18:21-35)のたとえ話を思い出してみればそのことは明らかです。多額の借金を背負った家来を王は、気前よくゆるしました。家来にそのお金を与えたのと同じです。ところが、その家来は与えられた富を分かち合おうとはしませんでした。自分に借金のある家来を見つけて、厳しく取り立てようとしたのです。それが法的に正しいことだったとしても、王はそのようなふるまいをゆるしません。王は、家来が、困っている仲間をゆるすこと、仲間に与えることを望んでいたのです。
 結局のところ、問われているのは、神から預かったものを自分のために使うのか、それとも困っている仲間のために使うのかということです。困っている仲間のために使うというのは、神の愛を生きるということですから、それは神のために使うことだと言ってもいいでしょう。神から預かったものを、自分のために使うのか、それとも困っている仲間のため、神の愛のために使うのか。それが問われています。「不正な富」を困っている仲間のため、神の愛のために使う人に、神はもっと「大きな事」、「本当に価値あるもの」を任せて下さいます。それは、神の真理です。真理を預かったからといって、それを自分の救いのためだけに使い、人々を裁くような人に、神は真理をおゆだねになりません。真理を人々と分かち合い、困っている仲間たちを助けようとする人に、神は真理を任せてくださるのです。神の御旨に忠実に、まずは与えられた「不正な富」を、困っている仲間たちと惜しみなく分かち合うことから始めたいと思います。