バイブル・エッセイ(403)『自分をゆるすことから』


『自分をゆるすことから』
 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ19:20-23)
「誰の罪でも、あなたがたがゆるせば、その罪はゆるされる。誰の罪でも、あなたがたがゆるさなければ、ゆるされないまま残る」と、イエスは言います。この言葉を聞いて戸惑う人もいるかもしれませんが、忘れてはいけないのは、神様はどんな罪でもゆるしてくださるということです。この地上でもし「罪がゆるされない」ということがあるとするなら、それは神様がゆるさないからではなく、わたしたちがゆるさないからなのです。
 まず、わたしたちは自分をゆるす必要があると思います。神様は弱くて不完全なわたしたちをゆるして下さっていますが、わたしたちはなかなか自分で自分をゆるすことができません。例えば何か大きな失敗をしたとき、誤って人を傷つけてしまったとき、あるいは自分の思い通りに生きられなかったときなど、「こんなはずではなかった」と自分をいつまでも責め続けてしまうのです。だが、神様はこんなわたしたちでも愛し、ゆるして下さっています。神様が愛して下さっているのに自分を愛せない、神様がゆるして下さっているのに自分をゆるせないというのは、傲慢ではないでしょうか。
「こんなはずではなかった」という言葉の中には、自分はもっとよくできたはず、優れた人間であるはずという思い込みがひそんでいます。大切なのは、この思い込みを捨てることでしょう。神様の愛に心を開き、神様のゆるしを素直に受け入れること。それが、自分をゆるすということなのです。
 隣人についても、同じことが言えると思います。わたしたちは子どもや配偶者、友人などに、高すぎる要求を突き付け、相手を裁いてしまいがちです。「こんな成績じゃだめでしょ」、「どうしてお給料が上がらないの」、「あなたはわたしのことを分かってくれない」などと言って相手を裁いて、ゆるすことができないのです。ですが、神様は、成績の悪い子どもや、給料の上がらない夫、人の気持ちが分からない友だちも、ありのままに愛し、ゆるして下さっています。神様が愛し、ゆるして下さっているのに、わたしたちが愛せない、ゆるせないというのは傲慢ではないでしょうか。
 相手を責めるとき、わたしたちは自分の弱さや不完全さを棚に上げてしまい、まるで自分が完ぺきであるかのように話しています。相手を裁きたくなったときには、自分自身の弱さや不完全さを思い出し、神様がどれだけ慈しみ深くゆるして下さったかを思い出したらいいでしょう。そうすれば、相手もゆるすことができるに違いありません。
 弱くて不完全な自分を、それでも神様から愛され、ゆるされた大切な自分として受け入れられた人は、自分と同じように弱くて不完全な人々を、それでも神様から愛され、ゆるされた大切な人として受け入れることができます。神から与えられたゆるしの使命をまっとうするために、すべての人に神のゆるしを伝えるために、まず自分自身をゆるすことから始めましょう。