バイブル・エッセイ(227)永遠に変わらぬもの


永遠に変わらぬもの
 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」(マルコ13:33-37)
 キリスト教で救い主を指す称号「キリスト」は「油を注がれた者」という意味ですが、仏教で悟りを開いた人を指す称号「仏陀」は「目覚めた者」という意味だと聞いたことがあります。何に目覚めているのかと言えば、この世界のすべては儚くうつろい消えていくものだという現実、すべてが変わりゆく中で私も存在しないのだという現実について目覚め、世界や自分への執着から解放されているということだそうです。
 被造物や自分自身に執着すべきでないというのは、キリスト教も同じ考えだと思います。絶えず移り変わっていく被造物の世界に執着しないこと、神の前で自分自身を取るに足りないものとみなすことは、キリスト教でも救いに至るための前提条件でしょう。しかしキリスト教では、すべてが儚くうつろい消えていくものだという事実を認めたうえで、その向こう側に永遠に変わらぬ何ものかが存在すると信じています。目に見える世界の向こう側に、目に見えない「神の国」が存在すると信じているのです。目に見える世界への執着から解放され、その背後から姿を現す目に見えない永遠の世界に気づく目を持つことこそ、キリスト教において「目が覚めている」ということの意味でしょう。
 例えばどこかに出かけるとき「あれもしなければ、これもしなければ」とか、「どうやってあいつに言い返そうか」とか、そんなことを考えながら歩いていると、すぐ頭上で美しく輝いている赤や黄色の木々の紅葉にも気づくことがないでしょう。その美しい彩りを通して神の国の栄光が輝いているのに、執着で曇らされた目はそれに気づくことなく通り過ぎていくのです。
 友達がやってきていつもと同じような話を始めたとき「ああまたいつもの話だ」、「早く終わらないかなぁ」などと考えていると、その友達の魂の奥深くからわたしたちに話しかけようとしておられるイエスの存在に気づくことができません。エスは目の前に来ておられるのに、執着に曇らされた目はそれに気づくことがないのです。それは、まるで主人が帰ってきたときに眠りこけている門番のようなものです。
 イエス・キリストは目に見える世界の向こう側からやってきて、わたしたちの心の扉を叩きます。それに気づき、イエスをお迎えすることができるように、目に見えない永遠の世界に向かっていつも「目を覚まして」いましょう。
※写真の解説…夕日に照らされたイチョウの落ち葉。新宿御苑にて。