バイブル・エッセイ(228)まっすぐな心で


まっすぐな心で
 神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」(マルコ1:1-8)
 「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」ために、洗礼者ヨハネが遣わされました。ヨハネが告げた通り、道をまっすぐにするために一番大切なのは神の前で自分の罪深さ認めること、悔い改めて神の御旨に自分を委ねることでしょう。
 わたしたちの心が荒野だとすれば、そこにはたくさんの岩が転がっています。例えば、あの人だけは絶対に許せないという憎しみの岩、自分の思った通りに自分も周りの人も動かしたいと願う傲慢の岩、イエスの道をふさぐそれらの岩を取り除けるにはどうしたらいいでしょう。自分の力で取り除けようとすれば、岩はますます大きくなるばかりです。しかし、神の前にへりくだって自分自身も罪人であることを認め、人間の思いの浅はかさを知るならば、誰かへの裁きも自分の将来もすべて神の手に委ねられるでしょう。後は、神が全能の力を持って岩を取り除けて下さるはずです。
 わたしたちの心はまた、でこぼこの山道、谷道にもたとえられます。山は傲慢、谷は卑屈さが作り出すものです。自分にはお金や能力がある、学歴や地位があるというようなことで自分を人より優れたものと思いこむ傲慢の山。それを砕いて平らにするためには、神の前に自分を置く以外にありません。全てを与えて下さったのは神であり、神はすべてを取り去られる力もまた持っておられることを知れば、おごり高ぶった心の山はしだいに低くされていくでしょう。
 自分はダメな人間だ、生きている価値などないと思い込む卑屈さの谷も平らにしなければなりません。罪深く弱い自分を、神様がこれまでどれだけ大切に守り、はぐくんでくださったを思えば、おのずと卑屈さは消えるはずです。逆に、自分はもっと偉い人間になれたはずだ、人から認められるはずだったという思いが残っていれば、卑屈さはいつまでも消えることがないでしょう。
 自らの罪深さを自覚し、神の愛と力を信頼してすべてを神の手に委ねるとき、わたしたちの心の岩は取り除けられ、山や谷は平らにされます。憎しみや嫉妬、不安や恐れの岩を取り除け、傲慢や卑屈のでこぼこをならし、まっすぐな心でイエス様をお迎えしましょう。
※写真の解説…カトリック六甲教会のステンドグラス。