心をまっすぐに整える
神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」(マルコ1:1-8)
「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」という使命を帯びて、洗礼者ヨハネが遣わされました。洗礼者ヨハネは、人々に悔い改めを説いただけではありません。謙遜な心で貧しく生きることによって、自分の心もまっすぐ神に向けて整えたのです。自分自身の心がまっすぐに整えられていたからこそ、主の道を準備することができたと言ってもいいでしょう。
わたしたちの心はときに大きく乱れ、まがりくねった、でこぼこの道になってしまうことがあります。怒りや憎しみに押し流されたときや、不安や恐れにとりつかれたときなどです。感情に任せて乱れた思いを口にしたり、行動に移したりすることによって、周囲の状況はますます悪くなってゆきます。周囲の状況が悪くなれば、心の乱れもますますひどくなり、もうイエスが入ってくることができないほどの混沌が生まれるのです。
そんなときにこそ、神様の前で自分の心をしっかり見直したいと思います。誰かに怒りや憎しみを抱いているとき、神様はわたしたちの眼中から消え去っています。「あの人は自分にとって邪魔な人間だ」「あんな奴さえいなければ」と、自分にとって相手がどんな人間であるかしか考えられなくなってしまっているのです。そんなときこそ、神様がわたしたちをどのように見ておられるかを思い起こすべきでしょう。神様は、わたしたちも、そして憎い相手も、両方とも救いたくて仕方がないのです。わたしたちが和解し、仲良く手を取り合って神の国への道を進んでゆくことを神様は望んでおられるのです。そのような姿を通して、神の国の福音を人々に伝えてゆくこそこそ、わたしたちの使命なのです。
恐れや不安を感じているときも同じです。将来のことについて恐れや不安を感じているとき、神様はわたしたちの眼中から消え去っています。何とかして自分の力で自分を守らなければならないと思い込むから、恐れや不安が生まれてくるのです。そんなときこそ、神様のことを思い出すべきです。神様がいつもわたしたちを守ってくださっていることを思い出せば、先のことを恐れる必要などないことが分かるでしょう。神様がわたしたちをお見捨てになることは決してありません。わたしたちは、ただ信じて委ね、恐れることなく自分の使命を果たし続ければいいのです。
神様の前で自分の心をしっかり整え、怒りや憎しみ、不安や恐れが生み出す混沌を追い払うとき、わたしたちの心にイエス様が来てくださいます。イエス様の愛が心に豊かに注がれ、わたしたちの心は喜びと安らぎに満たされるのです。イエス様は、「平和の君」とも呼ばれます。イエス様がやって来るとき、わたしたちの心に真の平和が実現するのです。キリストの愛で満たされた心から生まれる言葉や行いは、複雑に絡み合った問題を解きほぐし、周囲の状況をよくしてゆきます。わたしたちの心だけでなく、わたしたちの周りにも平和が実現するのです。怒りや憎しみ、不安や恐れに押し流されることなく、いつも神様を見つめて生きてゆくことこそ、平和への道だということをしっかり心に刻みたいと思います。