バイブル・エッセイ(232)祝福されたエリサベト


祝福されたエリサベト
 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(ルカ1:39-45)
 エリサベトは聖霊に満たされてマリア様を祝福しましたが、そのとき祝福されていたのは実はエリサベトだったのかもしれません。なぜならこのとき、エリサベトは出会った相手のうちにおられるイエス・キリストに気づき、そのことで相手を祝福した世界で初めての人になったからです。出会った相手の中にイエス・キリストを見つけ出し、そのことを祝福する。この大きな使命を人類で最初に果たし、わたしたちに模範を示したのがエリサベトなのです。
 なぜエリサベトは、マリアが神の母だと気付くことができたのでしょう。昔からよく知っている従妹がこともあろうに神の母として選ばれ、神の子を宿したなどというとんでもない事実を、なぜ素直に受け入れられたのでしょう。それは、彼女自身の身にも神の力が働き、取るにたりない自分を通して神が偉大な業をなしとげるという体験を自分自身で味わっていたからでしょう。こんな取るに足りない自分でさえ神は選び、洗礼者ヨハネの母にしてくださった。だとすれば、自分の従妹が神の母だったとしても何の不思議があるだろうか。神の偉大な業の前でへりくだった人は、そのように考えることができるのです。もしエリサベトにこのような心がなければ、仮にマリアが自分の身に起こったことを詳しく説明したとしても、決して信じることはできなかったでしょう。
 出会う人々の中にイエス・キリストを見つけ、その事実によって相手を祝福するためには、この謙遜さが必要だと思います。自分自身が神の前でどれだけ小さいものであるかを知り、そのような自分に神がどれだけ大きな恵みを注いでくださったか実感した人だけが、目の前にいる人が世間から取るに足りないと見なされているような人であったとしても、その人の中に働く神の力、その人のうちに宿ったイエス・キリストに気づけるのです。
 もし自分は相手よりもすぐれているとか、自分よりも劣ったこんな人に神の力が働くはずがないとか、そのような思い込みがあったとすれば、わたしたちは決して目の前の相手に宿っているイエス・キリストに気づくことができません。神の偉大な業の前にへりくだることで思い込みから解放され、聖霊によって開かれた目で隣人の中に生まれようとしているイエス・キリストに気づきたいものです。そのことに気づき、相手を祝福してイエス・キリストの誕生を励ますことこそ、わたしたちに与えられた使命でしょう
※写真の解説…カトリック神戸中央教会のステンドグラス。