バイブル・エッセイ(239)星を目指して


星を目指して
 エスは、ヘロデ王の時代にユダヤベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(マタイ2:1-12)
 砂漠の夜の闇を、ラクダにまたがり、天空に輝く星を目指して進む3人の博士たち。その姿は、わたしたちの人生の旅路、とりわけ若者たちの歩みと重なるように思います。
 おそらく高校生の頃でしょうか、ほとんどの若者たちは大学に進むのか働くのか、大学に進むとして何を勉強するのかという人生の選択を迫られます。まるで闇の中に放り出されたような、どちらに進んでいいかわからない状態です。そんな中である者は医師として人の命を救うことに光を見出し、ある者は企業に入って社会をよりよいものにすることに光を見出し、またある者は知的探究心の命じるまま研究者になることに光を見出し、それぞれがその光に向かって歩き出します。わたし自身は法律を勉強して資格を取り、それを使って貧しい人々の役に立つことに光を見出して、その方向に向かって歩き出しました。もっとも、わたしの場合は途中で別の星が現れ、その招きに従って今日に至っています。まあ、いずれにしても、わたしたちは天空にきらびやかに輝く憧れの仕事や地位を目指して歩き始めるのです。
 そこで忘れていけないのは、天空に輝く星は、単なる道しるべに過ぎないということです。夜空の星を目指して進んできた博士たちが、最後にその星の下、貧しい馬小屋で眠る幼子イエスの中に救いの光を見出したように、わたしたちを本当に救ってくれる光は、天空ではなくこの地上にあるのです。医師を目指した人なら健康を取り戻して喜ぶ患者さんの笑顔に、企業を目指した人なら便利になった人々の暮らしに、研究者を目指した人なら発見した真理の輝きの中に、自分が目指していた本当の光を見出すことでしょう。
 その道のりは、またわたしたちの心の旅路とも重なります。暗闇の中、星を目指して進んでいくうちに、わたしたちは自分が子どもの頃に思っていたようなスーパーマンにはなれないこと、どんなに頑張っても越えられない限界があることに気づかされていきます。時には、星が見えなくなったり、輝きを失っていくことだってあるでしょう。しかし、そのような試練を乗り越えながら進んでいくとき、実はわたしたちは自分自身の心の深みに向かって旅をしているのです。いつの日か、わたしたちは自分自身の弱くて不完全な心の底に、幼子イエスを見出すことでしょう。
 わたしたちが本当に求めている光は、天空ではなく地上に、心の表面ではなく心の深みにあります。星に導かれながら、その光を探してこの道を歩んでいきましょう。
※写真の解説…雪化粧した山道。六甲山、紅葉谷道にて。