バイブル・エッセイ(1001)魂の安らぎ

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魂の安らぎ

 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2:1-14)

「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と聞いて驚く羊飼いたちに、天使は「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」と言いました。貧しい飼い葉桶に寝かされた、まったく無力な乳飲み子こそが、あなたたちの救い主。その貧しさと無力さの中にこそ、あなたたちの、そして全人類の救いがあるというのです。

 飼い葉桶に寝かされたイエスの姿を見るとき、わたしは詩篇の中の「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします」(詩131)という言葉を思い出します。大きなもの、自分の力の及ばないものを求めて心を騒がせることなく、あるがままの無力な自分を神の手に委ねてすやすや眠る幼子。この詩篇の作者は、その魂の安らぎの中に人間の救いを見たのでしょう。

 わたしたち人間は、たくさんのものを欲しがり、自分の力の及ばないものさえ手に入れようとして苦しみに陥っていきます。わたしたちの苦しみのほとんどは、「あれが欲しかったのに手に入らなかった」ということから生まれてくるのです。豊かさや富を追いかけている限り、わたしたちの魂が安らぐことはありません。もし魂の安らぎ、魂の救いに到達したいなら、幼子のようになることです。何も持たない自分、何もできない自分をしっかり受け止めてくれる母の愛、神の愛を信じ、愛に包まれて安らかに憩う幼子の姿の中にこそ、わたしたちの救いがあるのです。

 飼い葉桶の中に寝かされた幼子イエスの安らかな寝顔は、わたしたちにそのことを思い出させてくれます。イエスの寝顔を見ながら、「わたしはいったい何を求め、何にしがみついているのだろう」と自分に問いかけるとき、救いへの道がわたしたちの前に開きます。欲しがっても仕方がないものを手放し、幼子のような心であるがままの無力な自分を神の前に差し出すとき、わたしたちの魂は救われるのです。

 救いに到達するために、きらびやかな服装やぜいたくなもの、地上での名誉や地位、権力などはまったく必要ありません。ただ、羊飼いたちのように、着の身着のまま、自分のあるがままの姿で集まればよいのです。誰もがあるがままの姿で魂の永遠の安らぎに到達できるからこそ、人類の救いなのです。余計なものは何一つ必要ありません。ただ、神の愛を信じる心さえあればよいのです。

 わたしたちが年に一度、こうして貧しい飼葉桶を囲み、すやすやと眠る幼子イエスを見て共に祈るのは、本当に素晴らしいことだと思います。この幼子の姿の中にこそ、わたしたちの救いがあるのです。自分の力の及ばない大きなものを求めず、ただ神の愛を信じ、神の愛に身を委ねて眠る無力なイエスの姿の中にこそ、わたしたちの救いがあるのです。忙しい毎日の中で救いを見失ってしまうことがないように、幼子イエスの姿をしっかりと心に刻みつけましょう。救いを見失いそうなときは、いつでも、幼子イエスの姿を思い出しましょう。この幼子イエスこそ、まさにわたしたちの救い主なのです。

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