バイブル・エッセイ(1063)真理を求めて

真理を求めて

 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。(マタイ2:1-12)

 三人の学者たちは、東方から自分たちを導いてきた星が幼子イエスのいる家の上に止まったとき「その星を見て喜びにあふれた」、そしてその家に入ると「ひれ伏して幼子を拝んだ」とマタイ福音書は記しています。王だったともいわれるこの学者たち、お金も地位も学識もあり、世間的にいえば十分に満たされていたはずのこの人たちは、なぜはるか東方から、星を追いかけて旅に出たのでしょう。なぜ、ヨセフの家で幼子イエスと出会ったとき、ひれ伏して拝んだのでしょう。

 この時代に長旅をするということは、大きな危険をはらんだことでした。いまほど治安はよくなく、どこで強盗に襲われたり、野犬に取り囲まれたりするかわからなかったからです。それにもかかわらず、この学者たちは、星を目指して旅に出ました。それはきっと、彼らの心の中に、満たされていない部分があったからだと思います。彼らの心の中には、どんなに財産や権力、学識があったとしても、それだけでは満たされない心の虚しさ。真実な人生へ飢えがあったのです。空に輝く特別な星、救い主の誕生を示すその星を見つけたとき、彼らは、真実な人生を求めて旅に出ました。どんな危険を冒しても、旅に出ずにはいられなかったのです。

 長い旅路の果てに、彼らが見つけたもの。それは、母マリアと共にいる一人の赤ん坊でした。救い主は、立派な王さまではなく、なんと母親に抱かれて眠る小さな赤ん坊だったのです。その赤ん坊を見たとき、彼らはその前にひれ伏しました。立派な服を着て宝物を持った学者たちが、小さな赤ん坊の前にひれ伏したところを想像してみてください。彼らは、いったいそこに何を見たのでしょうか。

 いろいろな想像ができると思いますが、彼らはきっと、母の腕の中で眠る幼子の姿の中に、自分たちの救いを見たのではないかとわたしは思います。詩編の131を思い出してみるとよいでしょう。この詩編で、ダビデ王とされる作者は「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします」と祈っています。ダビデ王は、世俗での富や権力、名声を求めても、心が満たされることは決してない。母を信頼してすやすや眠る幼子のように、神にすべてを委ねて安らかに生きる。それこそが、本当の幸せだと気づいていたのです。三人の学者たちも、きっと同じことに気づいたのでしょう。だからこそ、幼子であるイエスをひれ伏して拝んだのです。

 この学者たちの姿は、わたしたちに重なる部分があると思います。物質的に満たされても、学校で学んでも、それだけでは満たされないものがある。心を満たしてくれる何かを求めて教会に集まってきたというところで、わたしたちと三人の学者たちは重なるのです。わたしたちは、三人の学者たちのように、幼子の中に人生の真理を見つけ、その前にひれ伏すことができるでしょうか。謙虚な心で真理を求め続けた三人の学者たちにならって、わたしたちも謙虚な心で真理の前にひざまずくことができるようお祈りしましょう。

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