バイブル・エッセイ(259)仕えるために


仕えるために
 ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(マタイ20:20-28)
 「わたしは仕えられるためではなく、仕えるために来た。」この有名な言葉は、歌にもなっています。ある朝、静かなミサの中でその歌が歌われたとき、思わぬ珍事が起こりました。一人の年配の御婦人が大きな声で「わたしは仕えるためではなく、仕えられるために来た」と歌ったのです。本人は間違えたことにも気づかなかったようでしたが、周りは笑ってしまってしばらく歌が中断しました。
 「仕える」と「仕えられる」、確かに間違いやすい言葉です。実際、両者のあいだにほとんど境い目がないような場合さえあります。例えば、寝たきりのお婆さんを家族みんなが力を合わせて世話している場合。このお婆さんは一見、世話されてばかりいるように見えますが、実はおばあさんのお蔭で家族の心が一つになっているという意味で家族を世話しています。仕えられているようで、実は仕えているのです。
 逆に、仕えているように見えて、実は仕えられているということもありえます。自分は奉仕しているから偉いと思い込んでいる人、そのことを鼻にかけて奉仕しない人を馬鹿にするような人は、奉仕してるように見えて実は偉くなるために相手を利用しているのです。その人は、一見仕えているように見えて、実は仕えられているのです。「偉くなりたい者は、仕える者になりなさい」と言われたからといって、偉くなりたい一心で奉仕しても無駄なことです。そのような人は、仕えているように見えて、実は仕えられているだけなので、ちっとも偉くないのです。
 仕えているのか仕えられているのか決めるのは、結局のところ奉仕する人の心でしょう。イエスは苦しんでいる人々のために「自分の命を捧げに来た」と言っています。苦しんでいる人々を放っておくことができない、その人々のために自分を差し出しても惜しくない、そんな気持ちで奉仕する人こそが本当の意味で仕える人なのです。仕えているように見えて実は仕えられている人ではなく、真に仕える人になることができるよう、愛に満ちた謙遜な心を神に願いましょう。 
※写真の解説…京都府立植物園梅林にて。