バイブル・エッセイ(563)どちらを選ぶのか


どちらを選ぶのか
「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(ルカ16:10-13)
「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」とイエスは言います。神に仕えるとは、神のため、助けを求めている人たちのために自分を差し出して生きるということ。富に仕えるとは、自分の利益や欲望のために生きるということ。両方に仕えることができないのは明らかです。どちらかを選ばなければなりません。
 昨日、久しぶりに足立区にある「神の愛の宣教者会」修道院を訪ねました。アパートや団地が立ち並ぶ、広大な東京のベッドタウンの真ん中にある修道院です。戦後間もなく建てられて、現在ではかなり老朽化した建物も多く観られます。年金暮らしのお年寄りや、病気などのために生活保護を受けている方々が、そこでで何万人も暮らしていらっしゃいます。マザー・テレサのシスターたちは、そのようなお年寄りや病気の方々のために地道な奉仕活動を続けているのです。一人暮らしのお年寄りを見舞って部屋の掃除をしたり、食事を届けたりすることもあります。路上生活者のために炊き出しをすることもあります。週に1度は、修道院にご近所の高齢者や病気の方々を招いて食事会をしています。真心のこもったおいしい食事を提供し、歌を歌ったり、ゲームをしたりして楽しい時を過ごすのです。「ここに来るのが生きがい」「ここに来るようになって生活に張りが出た」という方も、たくさんいらっしゃいます。
 マザー・テレサのシスターたちの選びは、はっきりしています。社会の片隅に追いやられ、顧みられることのないような人たちに徹底的に寄り添うことです。「神は貧しい中でも最も貧しい人たちと共にいる」ということを、身をもって証することです。自分のためではなく、神のため、人々のために生きることを選んだシスターたちの顔は、いつも清らかな喜びに輝いています。それは、彼女たちがいつも神と共にいるからでしょう。彼女たちは、貧しい人たちの中にイエス・キリストを見ているのです。
 わたしたちは、どちらを選ぶでしょう。自分を差し出すことによって、喜びに満たされ、神の愛を証する人生か、それとも自分の利益と欲望のためだけを追い求める人生か、どちらかを選ばなければなりません。
 私利私欲のために生きる人は、その時その時で快楽をむさぼることができるでしょう。ですが、いつまでたっても幸せになることはできません。どんなに欲望を満たしても、それだけで心が満たされることはないからです。わたしたちの心を満たすことができるのは、ただ愛だけ。私利私欲のために仲間を蹴落とし、家族を犠牲にするような生き方をしていれば、愛からどんどん遠ざかって不幸になるばかりです。私利私欲を求める人は、不幸に向かって一直線に進んでゆくのです。
 神のため、苦しんでいる人々のために自分を差し出して生きる人は、幸福に向かって一直線に進んでゆきます。苦しんでいる人を見て「放っておけない」と感じ、自分を差し出す。それこそが、愛だからです。神のため、人々のために生きる人は、いつも神とつながり、神の愛で心を満たされて幸せに生きることができるのです。神と富、二人の主人に仕えることはできません。どちらが自分の本当の望みなのかを、しっかりと見極めたいと思います。