やぎぃの日記(143)こいずみクラスより〜「願うことは何でも」


こいずみクラスより〜「願うことは何でも」

 ここのところ毎月第2、第4火曜日の晩は、三ノ宮の女子パウロ会書店で行われているこいずみゆりさんの「祈りの入門講座」に参加している。第1、第3火曜日は司祭であるわたしが「聖書入門講座」をし、第2、第4火曜日は信徒のこいずみさんが聖書の御言葉を祈るための方法を信徒の目線で解説したら信徒の皆さん、あるいは初めてキリスト教の門をたたく皆さんの役に立つのではないかということで、わたしが頼んで始めてもらった講座だ。
 最初は、頼んだ手前わたしも参加した方がいいだろうという義務感から時間を割いて行き始めたのだが、最近では参加するのが楽しみになっている。本で学んでよく知っていることであっても、日常生活の中で信徒としてその知識を生きているこいずみさんから説明されると、まったく違うインスピレーションを受けて理解が深まる。ヨガのインストラクターの資格を持つこいずみさんらしい、身体を使って祈りに入っていく方法の紹介にも教えられることが多い。受けないのはもったいないと言っていいくらい、実にすばらしい講座だ。受講者であるわたしたちだけで独占するのはもったいなので、昨日の講座の中からいくつか印象に残った言葉を紹介したい。
「『求めなさい。そうすれば与えられる』とマタイの福音書にありますが、その通りだと思います。神に助けを願い、叫んで、叫び続けて続けて自分の手には何の力もないと深く悟ったとき、その空っぽの手を神が満たしてくださるのです。懇願の祈りは謙虚さを生み、謙虚な心を神は必ず満たしてくださいます。」
「『神に願うことは何でもかなえられます』というヨハネの言葉、そんな都合のいいことが本当にあるのかと思うかもしれませんが、確かにあると思います。自分の無力さ、罪深さを認めて自分のことは神にすっかり委ね、ただ誰かの魂に神の愛を届けたいという一心で願うことは必ずかなえられるのです。神は、相手の魂に触れるために必要な力を必ず与えてくださいます。」
「祝福の祈りの根底には、言葉は必ず現実となるという確信があります。確かにそうでしょう。誰かのために祝福を祈り続ける人は、自分自身と相手のあいだに少しずつ『神の国』を実現していきますし、誰かを呪い続ける人は、やがて自分自身も相手も滅ぼしてしまうのです。」
「教会がキリストの体だとすれば、祈りはその呼吸です。教会という体の細胞の一つであるわたしたちが祈りの中で恵みの酸素を受け取って元気になれば、教会全体、体全体が元気になるのです。逆に、わたしたちが呼吸をするのをやめれば、教会全体、体全体が腐っていくでしょう。」
「悪魔が一番喜ぶのは、わたしたちが神の愛をあきらめ、がっかりして自分の殻の中に閉じこもってしまうことです。姿が見えなくても、声が聞こえなくても、イエスは必ずわたしたちのそばにいてくださいます。苦しみの中で、神に向かって助けを求め続けましょう。そうすれば、近くにいてくださるイエスの気配に気づくはずです。」