バイブル・エッセイ(286)「神の国」の種まき


神の国」の種まき
神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」(マルコ4:26-32)
  「神の国」の種は、人の心にまかれると、知らないうちに育って枝を張り、豊かな実をつける。確かにそうだなと思わされる話を聞いたことがあります。
 ある青年がキリストの教えに生涯を捧げたいと感じ、神父にでもなろうかと思って識別の黙想会に参加しました。神父になればたくさんの人に神の愛を教えられる、リーダーとして活躍できる、そんなことを夢想しながらのことでした。
 数日が過ぎたとき、青年は思いがけない光景に出会って心を強く打たれました。その黙想の家のブラザーが、廊下やトイレの掃除といった目立たない仕事を、本当にうれしそうな顔でしていたのです。その笑顔を見たとき彼は、「自分が本当にしたかったのはこれだ」と思ったそうです。
 その後、彼は司祭志願者としてではなくブラザー志願者として修道会に入りました。もともと気立てが優しく、思いやりのある人だったので、彼はブラザーとして順調に成長していきました。修道会から信頼されて外国で学ぶ機会も与えられ、今では老人ホームの責任者として大活躍しています。たくさんのおじいさん、おばあさんが、彼のもとで幸せな日々を送っているのです。
 この話はまさに「神の国」たとえ話通りだと思います。黙想の家の掃除係のブラザーは、自分でも気が付かないうちに青年の心に「無私の愛」という「神の国」の種をまきました。その種は、まいた本人が知らないうちに、青年の心という大地の中にあった優しさや思いやり、責任感といったよいものを集めてすくすく成長していきました。そして、今や青年は老人ホームの院長という立派な大木となって、その陰にたくさんのおじいさんおばあさんが憩っているのです。
 「神の国」の種まきは、このようにして行われます。わたしたちも、神から自分に与えられた使命を感謝のうちに喜んで果たすこと、目立たないことであっても人々のために真心を込めて尽くすこと、そのようなことで人々の心に「神の国」の種をまくことができるのです。種がいつも根付くとは限りませんが、この青年の話のようにふとしたきっかけで心の深みにまで落ちることがあります。ひとたび心の深みに落ちた種は、わたしたちが知らない間に成長し、豊かな実をつけるようになっていくでしょう。
 真実に生きられた信仰の種は、いつか必ず誰かの心に届き、その深みに落ちて芽を出します。決してあきらめることなく、「神の国」の種まきを続けていきましょう。
※写真の解説…2011年、夏の軽井沢にて。