バイブル・エッセイ(826)願うべきこと


願うべきこと
 一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。(マルコ10:46-52)
 躍り上がって喜ぶ盲人に、イエスは「何をしてほしいのか」と尋ねました。これはちょっと意外な質問にも思えますが、ある意味で当たり前かもしれません。この盲人は物乞いをしていた人ですから、「お金をください」とイエスに願ったとしてもおかしくなかったのです。ですが、この盲人は、自分にとっての本当の問題が、お金がないことではなく、目が見えていないことだとよく知っていました。だからこそ、自分にとって一番必要なことをすぐに願うことができたのです。わたしたちは、自分にとって一番必要なことがわかっているでしょうか。イエスから「何をしてほしいのか」と尋ねられたとき、すぐに答えることができるでしょうか。
 たとえば、遺産相続のことで家族ともめ、悩んでいる人がいたとしましょう。その人がイエスの前に立って、「わたしにとって有利な相続ができるように、家族を回心させてください」と願ったなら、それはまるで、目の見えない人が「お金をください」とイエスに願うようなものです。その人が本当に願うべきなのは、お金のことに執着し、家族のことが考えられなくなっている自分の目を開いてくださいということなのです。もし目が開かれ、家族への思いやりを取り戻したならば、遺産相続の問題は円満に解決され、その人は財産だけでなく家族との絆も守ることができるでしょう。
 友達とのトラブルでも同じです。「あの人がわたしの意見を認めるように、あの人を謙虚にしてください」と願っても、あまり意味がありません。エスに願うべきなのは、相手の意見を認められない頑ななわたしの心を回心させ、相手とよく話し合って一番よい道を見つけられますようにということなのです。
 このように考えて来ると、わたしたち自身にとっても、真っ先にイエスに願うべきことは「わたしの目を開いてください」ということなのではないかと思えてきます。自分は色々なことがよく見えていると思い込んでいるだけで、実際には見えていないことが、わたしたちにはあまりにも多いのです。わたしたちにとって一番必要なのは、目先の利害にとらわれて自分のことしか考えられなくなり、固く閉ざされた心の目が開かれることだと言っていいかもしれません。心の目が開かれさえすれば、わたしたちは自分にとって一番大切なことが何かを見分け、一番必要なことをイエスに願えるようになるでしょう。まずはこの盲人と心を合わせ、心の目が開かれる恵みをイエスに願いましょう。