バイブル・エッセイ(306)マリアは立っている


マリアは立っている
 エスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。(ヨハネ19:225-27)
 無残な姿で十字架につけられ、死んでゆくイエスの傍らに、マリアが黙って立っています。十字架の傍らにマリアが立っていたということは、それだけで本当に深い意味を持っているように思います。
 果たして、目の前で我が子が殺されるというときに、立っていられる母親がどれだけいるでしょうか。以前に、死刑囚の最後の1日を記録したアメリカのテレビ番組を見たことがあります。アメリカの死刑囚は、処刑の日時が告知されたあと、最後の時を家族と共に過ごすことができるようです。その番組では、広くて何もない部屋で、死刑囚と家族が何を話すともなく沈黙で最後の時を過ごす様子が映し出されていました。数時間していよいよ死刑囚が処刑室に連れて行かれるという時、母親は突然立ち上がり、何とか息子を奪い返そうと思ったのでしょう、猛然と息子に向かって突進しようとしました。しかし、すぐに看守に取り押さえられ、死刑囚である息子は重い鉄の扉の向こうに連れて行かれてしまいます。母親は、大きな叫び声を上げながらその場に泣き崩れ、いつまでも泣き止むことがありませんでした。
 おそらくそれが子どもを思う母の心というものでしょう。凶悪な罪を犯した息子であってもそうなのですから、無実の息子を処刑されるマリアの苦しみは一体どれほどだったかと思います。しかし、マリアは十字架の傍らに立ち続けました。なぜそんなことができたのでしょうか。それは、エスの苦しみを最後まで共に担うこと、イエスと共に「心を刺し貫かれる」苦しみを味わうことが神から自分に与えられた使命だと知っていたからだと思います。母マリアがそこにいたことは、父なる神から見捨てられたとさえ感じるほどの苦しみの中にいたイエスにとって、どれほど心強いことだったでしょうか。
 いつかわたしたちも、イエスと共に十字架につけられるときがやってくるでしょう。そのとき、苦しみの中で天を仰ぎ、父なる神を探しても見つけられないなら、地上に聖母マリアを探しましょう。聖母マリアは必ず、わたしたちの傍らに立っていてくださるはずです。
※写真の解説…布引ハーブ園にて。