バイブル・エッセイ(315)よろこんで選び取る掟


よろこんで選び取る掟
 そのとき、一人の律法学者が進み出て、イエスに尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。(マルコ12:28-34)
 掟という言葉を聞くと、押し付けられていやいや実行する義務という印象を受ける人がいるかもしれません。しかし、ここでイエスたちが話している掟は、義務ではなく、むしろ自分たちの決意に基づく選択と考えた方がいいでしょう。
 イエスの十字架を見上げて祈り、わたしたち人類のために自分の全てを差し出してくださったイエスの愛を全身全霊で感じ取るとき、わたしたちはそれほどまでにわたしたちを愛してくださる神を愛さずにはいられなくなります。エスがしてくださったことを思うなら、それこそ「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして」神を愛さずにはいられなくなるのです。
 神との愛の交わりの中で、わたしたちは自分自身も愛さずにいられなくなります。どれほど弱く、罪深い自分であったとしても、神がこれほどまでに大切にしてくださる自分を愛おしく思わずにはいられなくなるのです。隣人に対しても同じです。どれほど気に入らない相手でも、自分と同じくらい弱く、罪深く、また自分と同じくらい神から大切にされている人だと思えば、その相手を愛さずにいられなくなるはずです。
 神からの愛を全身全霊で受け止め、神を愛し、自分を愛し、隣人を自分自身のように愛するとき、わたしたちはそこに人生で最高の幸せを見いだし、2度とそこから離れたくなくなるでしょう。こうして、わたしたちは自らの意思で2つの掟を選び取り、それを守る決意をするのです。
 キリスト教の他の掟は、すべてこの掟から派生してくると言っていいと思います。例えば「嘘をついてはならない」という掟。自分の思いを通すために神を欺き、人を欺くなら、わたしたちは神とも人とも愛の交わりを断つことになります。やがて、そんなことをしている自分さえも愛せなくなり、気が付いたときには誰も愛することができない暗闇の中に放り出されてしまうのです。それがわかった人は、もう2度と嘘をつこうとは思わないでしょう。その人は、自らよろこんで「嘘をついてはならない」という掟を選び取るのです。
 あるいは「隣人の物を手に入れようとしてはいけない」という掟。そもそも、隣人の物を手に入れようとするのは、神から与えられた愛に満足できないということです。そのような思いは、隣人の財産、能力、評判などへの嫉妬を生み、嫉妬は怒りや憎しみを生んで、隣人との関係を破壊します。やがて、そんなことで心を乱している自分にも愛想がつきて、その人は神とも自分とも隣人とも交わりを絶たれてしまうでしょう。それがわかった人は、もう2度と隣人の物を手に入れようとはしないはずです。その人は、自らよろこんで「隣人の物を手に入れようとしてはならない」という掟を選び取るのです。
 そのようにして神の掟を自らよろこんで選び取っていくうちに、わたしたちの心に少しずつ神の支配が打ち立てられてゆきます。わたしたちの心に「神の国」が実現してゆくのです。やがて、自分の望みのままに行動しても神の掟に反することがないというところまでゆけば、そのときその人の中に「神の国」が実現したと言っていいでしょう。
 神の掟が支配する「神の国」は、神の愛を全身全霊で受け止め、神を愛し、自分を愛し、隣人を愛すること、そこに人生で最高の幸せを見つけることから始まります。まずその恵みを願い求めましょう。
※写真の解説…カトリック六甲教会から見た夕日。