バイブル・エッセイ(262)一つの教え


一つの教え
 一人に律法学者が進み出て、イエスに尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。(マルコ12:28-34)
 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」この掟を守り、目に見えず、手で触れることも、声を聞くこともできない神に愛を示すため、旧約の民は律法を厳密に守り、断食に励みました。しかし、わたしたちには目に見え、手で触れることも、声を聞くこともできる神、イエス・キリストが与えられています。主を愛するとは、わたしたちにとってイエスを愛することに他ならないのです。イエスを愛することこそわたしたちの守るべき唯一の律法であり、断食だと言っていいでしょう。
 では、どうしたらイエスを愛せるのでしょう。イエスはどこにおられるのでしょう。イエスは、わたしたちの内におられます。わたしたちの心の中、隣人の心の中におられるのです。エスはわたしたちの心の中にいて、わたしたちの罪や弱さを共に担ってくださっているのです。
 祈りの中で、まず自分自身の罪や弱さと向かい合ってみましょう。これはなかなか辛いことで、途中で目をそむけたくなりますが、勇気を出してとことん向かい合ってみましょう。自分自身の罪や弱さを直視するとき、わたしたちはそこでイエスと出会うでしょう。わたしたちの心の奥底で、イエスはわたしたちの罪や弱さの十字架を担ってくださっているのです。そのことに気づけば、わたしたちはこれほどまでに自分を愛してくださっているイエスを愛さずにいられなくなるでしょうし、これほどまでに愛されている自分を愛さずにいられなくなるでしょう。
 次に、隣人たちの罪や弱さと向かい合ってみましょう。家族や友人、貧しい人々や病人たちはもちろん、わたしたちにひどいことを言ったりしたりする誰かの心の中にさえ、必ずイエスがおられます。その人の心の中で、その人の罪や弱さの十字架を共に担っておられるのです。相手の罪が大きければ大きいほど、弱さの苦しみがひどければひどいほど、イエスは一層、懸命にその重い十字架を担おうとされます。なんとかして、その人を救うためです。それほどまでして全人類を救おうとするイエスに出会うとき、わたしたちはイエスを愛さずにいられなくなるでしょうし、そこまでしてイエスが救おうとしている相手を愛さずにいられなくなるでしょう。相手の罪や弱さの十字架を共に担うことで、イエスの背負った十字架を少しでも軽くしたいとさえ思うかもしれません。
 このようにして、「心を尽くし、精神をつくし、思いを尽くし、力を尽くして」わたしたちの主であるイエスを愛するとき、わたしたちは自分自身を、そして自分自身と同じように隣人を愛さずにいられなくなるのです。イエスが教えてくださった二つの教えは、実は一つのことなのです。この四旬節、ふだんは途中で曖昧にしてとことん向かい合うことがない自分自身の罪や弱さ、無視したり遠ざけたりして避けている隣人たちの罪や弱さと、しっかり向かい合ってみましょう。そのとき、わたしたちはイエスを見つけ出して、神を愛し、自分を愛し、自分と同じように隣人を愛することができるようになるでしょう。
※写真の解説…土手で芽をだしたツクシたち。琵琶湖湖畔にて。