バイブル・エッセイ(345)まったく新しい掟


まったく新しい掟
 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:31-33a, 34-35)
 最後の晩餐の終わりに、イエスは「新しい掟」を弟子たちに与えました。それは、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という掟でした。確かにこの掟は、弟子たちにとってまったく新しい掟でしたし、今もその新しさは少しも損なわれていません。この掟の「新しさ」について考えてみたいと思います。
 まず、イエスは「互いに愛し合いなさい」と言いました。「互いに愛し合う」という掟のどこに新しさがあるのでしょう。これまで神が預言者たちを通してイスラエルの人々に与えた掟は、本来どれも、神を愛し、人々を愛するための掟でした。ですが、残念ながら律法学者やファリサイ派の人々は神の掟を本来の目的と切り離して解釈し、人々を裁いたり、否定したりするための道具にしてしまいました。「あの人は浄めの犠牲を捧げることができなかったから罪人だ」といった具合です。律法学者やファリサイ派の人々は、神の掟を神の愛、神の栄光を地上に輝かせるための道具ではなく、自分を正当化し、自分の栄光を地上に輝かせるための道具にしてしまったのです。
 そんな状況の中で、イエスは「互いに愛し合いなさい」という掟を弟子たちに与えました。この掟によって人々を裁き、否定し、自分を正当化することは誰にもできません。そうした瞬間に、その人はこの掟を破ることになるからです。この掟に従うための唯一の道は、互いにゆるしあい、受け入れあい、愛し合うことだけです。この掟は、あらゆる掟に本来の姿を取り戻させるための掟、あらゆる掟を神の愛で包み込む「掟の中の掟」と言っていいでしょう。このような掟は、これまでどこにも存在しませんでした。ここに、この掟の第一の「新しさ」があります。
 次にイエスは、言葉を補うようにして「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言いました。「わたしがあなたがたを愛したように」、この言葉の中にこの掟の第二の「新しさ」が示唆されていると思います。これまでのあらゆる掟は、天におられる神から地上の人間に与えられたものでした。人間を何とか救おうとして与えた掟ではありましたが、受け取った人々の中には「神は人間の苦しみや痛み、弱さを知らないからそんな無理なことが言えるんだ」と思った人もいるでしょう。
 ところが、今回の掟は、神ご自身が自ら人間となって生き抜いた掟でした。イエスの生涯を見るとき、イエスに向かって「あなたは人間の苦しみや痛み、弱さを知らないからそんなことが言えるんだ」などと言える人は誰もいないでしょう。エスは、人間のあらゆる苦しみや痛み、弱さを背負いながら「互いに愛し合う」ことが可能であることをはっきりと示したのです。この掟は、神ご自身が人間になることでしっかりと裏打ちされた、初めての掟だったのです。ここに、この掟の第二の「新しさ」があります。
 人を裁き、否定し、自分を正当化するための掟ではなく、互いにゆるし合い、受け入れあい、愛し合うための掟としての「新しさ」、神ご自身によって証された初めての掟としての「新しさ」は、現在に至るまで少しも損なわれていません。現代の社会にも多くの掟がありますが、それらのほとんどは他者を裁き、否定し、自分を正当化するための競争の道具に使われてしまっているからです。現代の社会にも立派な掟を語る人々がたくさんいますが、語ったその人本人の生涯によって裏打ちされた掟はほとんど存在しないからです。
 現代社会では、多くの人々がこの「新しい掟」を求めています。競争するためではなく愛し合うための掟、語り手本人によって生きられた信頼できる本物の掟を誰もが求めているのです。この掟を守り、「互いに愛し合う」ことで現代社会にこの「新しい掟」を高らかと宣言しましょう。
※写真…イエズス会神戸修道院の庭にて。ケヤキの新緑とツツジ