バイブル・エッセイ(796)足を差し出す


足を差し出す
 過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネ13:1-15)
 自分の前に跪き、足を洗おうとするイエスに向かって、ペトロは「わたしの足など、決して洗わないでください」と言いました。一日中歩き回ってすっかり汚れた自分の足を、イエスに洗ってもらうことなどできないと思ったのでしょう。ですが、そんなペトロに向かって、イエスは「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言います。
 教会でも洗足式を行いますが、「足を洗わせてください」と私がお願いしても、皆さん恥ずかしがってなかなか引き受けてくれません。汚れている足、普段は隠している足を、相手の目の前に差し出すということには、やはりためらいがあるようです。ですが、なぜ隠す必要があるのでしょうか。「こんな足を見せたら、嫌われてしまうかもしれない」と心配して隠すのならば、それは相手を信頼していないということにつながります。
 エスは、わたしたちの汚れた足、汚れた心を見たところで、決してわたしたちを嫌いになることはありません。むしろ、わたしたちがイエスの愛を信じ、汚れた部分を差し出したことを喜んでくださいます。何も隠さず、あるがままの自分を差し出すということは、とりも直さず、わたしはあなたを信頼している、あなたを愛しているという意味だからです。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」とイエスが言うのは、「もしあなたが汚れた部分を隠し続けるなら、あなたはわたしの愛を拒むことになる」という意味だと考えたらいいでしょう。
 中には、「そんなこと、あなたにしてもらっては申し訳ない。自分でします」という意味で、「わたしの足など、決して洗わないでください」という人もいるでしょう。ですが、本当に自分でできるのでしょうか。エスは、わたしたちの足を取り、わたしたちが気づいていない汚れまで見つけ出して洗って下さいます。イエスに洗ってもらった足は、自分で洗うときよりずっときれいになるのです。「自分で出来ます」という態度では、せっかくのイエスの愛が無駄になってしまいます。わたしたちに求められているのは、イエスを信じ、イエスの愛に心を開くことなのです。
「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」とイエスは言います。これは、互いに仕え合いなさいということですが、そのためには、互いへの信頼と、自分の限界を素直に認める謙虚さが必要です。互いを信頼して隠しごとをせず、弱さを補い合いながら共に生きてゆく、それこそが愛し合うということの意味でしょう。「互いに足を洗い合いなさい」というのは、「互いに愛し合いなさい」ということと同じ意味なのです。