【フランシスコ教皇の言葉】


フランシスコ教皇の言葉
■説教・メッセージから■
4月22日(月)朝のミサでの説教
「羊の囲いに門から入らない者は泥棒だと、イエスは弟子たちに言いました。それは、自分の利益を求め、出世の梯子を上ることだけを願っている人のことです。神の国への入り口は、イエス御自身以外にありません。教会共同体にさえ、このような出世主義者がいます。彼らは自分の栄光を求めているのです。」
「私たちはまだ原罪の影響を引きずっています。すべてを解釈する鍵、何についてであれ、自分自身の道、自分自身の門を見つける鍵と力を持ちたいと、まだ望んでいるのです。ときどき私たちは、主の謙遜な子どもや奉仕者ではなく、自分の主人でありたいという強い誘惑を受けます。」
4月23日(火)聖ジェオルジオの祝日・教皇様の霊名の祝日のミサでの説教
キリスト教徒のアイデンティティーは、IDカードではありません。教会に属するということです。母なる教会が私たちにくれるアイデンティティーは単なるシールでもありません。教会に属するということです。アイデンティティーとは、属するということなのです。」
「もし慰めだけを望むなら、それは表面的な慰めになるでしょう。主の慰めではなく、人間の慰めです。教会の旅は、いつでも十字架と復活のあいだを進みます。迫害と、主の慰めのあいだを進むのです。そしてこの道こそ、歩む人が決して迷うことのない道です。」
4月24日(水)朝のミサでの説教
「教会は、父なる神の心の中で、愛の中で生まれました。そして、これほど長く続き、いまだ終わることがないこのラブ・ストーリーが始まったのです。私たちはこのラブ・ストーリーの中にいます。このことを理解しないなら、私たちは教会について何も理解していないのです。」
「教会は単なるもう一つの組織ではありません。教会は母なのです。お母さん方は、もし誰かから『家庭の管理者』と呼ばれたらどう感じますか。『いえ、わたしは母です』と言い返すでしょう。同じように、教会は母なのです。私たちは皆、母なる教会の中にあって一つの家族なのです。」
4月24日(水)一般謁見でのメッセージ
「若者の皆さんには、神から与えられた賜物を他者のために惜しみなく使うようお願いします。最後の審判のたとえは、終わりのとき、私たちが他者への愛、とりわけ困難な状況に置かれた人々への愛に基づいて裁かれることを思い出させてくれます。」
4月25日(木)朝のミサでの説教
「世界の隅々まで、見渡す限りの地平に向かって出かけてゆく。それが、キリスト教徒の持つべき心の広さです。臆病なキリスト教徒というのは理解出きません。この心の広さは、キリスト教徒の使命の一部なのです。いつもより遠く、より遠くをめざし、いつも前に進んでいくのです。」
「福音を宣言するときには、謙遜、奉仕、慈しみ、兄弟としての愛をもってするべきです。世界を『征服する』ということではありません。キリスト教徒は、戦いに勝ってすべてにかたをつける兵士のようであってはなりません。キリスト教徒は、言葉よりもむしろ生活の証によって福音を宣言するのです。」
4月26日(金)朝のミサでの説教
「『わたしたちはよく見えます、眼鏡も必要ありません』、と言う人がいるかもしれません。ですが、白内障を患っている人たちのことを考えてみなさい。彼らはまだ見えますが、手術の後にはきっこう言うでしょう。『こんなによく見えるなんて思わなかった。』私たちの魂の目もそれと同じです。」
4月27日(土)朝のミサでの説教
「アンティオキアの人々は、なぜ主の言葉に耳を閉ざしたのでしょう。それは、彼らが心を閉ざしたからです。彼らの心は、聖霊のもたらす新しさに開かれていなかったのです。彼らは、もうすべてのことが言い尽くされ、すべては自分たちの思った通りであるべきだと信じていました。だから、使徒たちを信仰の攻撃者と感じ、彼らに反論したのです。」
4月28日(日)堅信式ミサでの説教
1.神の新しさ
「神の新しさは、過ぎ去っていく世間の目新しさとは違います。それらは来ては去り、私たちは満たされることがありません。ですが、神が下さる新しさはいつまでも続くものです。私たちが神の元に行く未来だけではなく、今日においてもその新しさは続いています。神は、今このときもすべてを新たにしておられるのです。」
2.人生の試練
「主のあとに従い、聖霊に私たちの生活の影の部分、神の子としてふさわしくない振る舞いを変えていただくこと、罪を清めていただくということは、たくさんの障害物のある道を歩み出すということです。ですが、困難や試練は神の栄光へと続く道の一部なのです。」
3.主においてしっかりと立つ
「信仰の旅にあっては、主への確かな希望を胸に、しっかりと歩み続けなさい。それこそが旅の秘訣です。主は、大きな流れに逆らって泳ぐ勇気を与えて下さいます。主との友情を失わない限り、恐れるべき困難や試練、人からの誤解は存在しません。」
4月29日(月)朝のミサでの説教
「誰もが人生の中で、すべてが闇の中にあるような時を体験します。ですが、それは闇の中を歩むということではありません。闇の中を歩むとは、自分自身に過剰に満足し、自分には救いが必要ないと信じることです。これこそが闇なのです。この闇の道を歩み続けるなら、引き返すのは容易ではありません。」
「告解室に行くのは、服の汚れを落とすためにクリーニング屋に行くようなものだと思いがちです。ですが、告解でのイエスクリーニング屋ではありません。告解は、ありのままの私たちを待ちわびているイエスとの出会いなのです。」
「恥を感じる力は、まさにキリスト教の徳です。イタリア語で似た言い方があるか知りませんが、私たちの国では恥を感じない人々を‘sin verguenza’と呼びます。『恥を知らない者』という意味です。なぜなら、彼らは恥じる力を持たない人々だからです。恥を感じるというのは、謙遜な人々の徳なのです。」
教皇様のツイート■
4月23日(火)
「私たち一人ひとりが、愛や真理、命に憧れています。そして、イエスはまさにこれら全てなのです。」
「マリアは『はい』と言う方です。マリアよ、イエスの声をもっとよく知り、イエスの声に従うのをお助け下さい。」
4月24日(水)
「祈りと秘跡によって、信仰の炎を生き生きと燃やし続けましょう。神を決して忘れないようにしましょう。」
4月25日(木)
「この危機の時にあって大切なのは、自分自身の中に閉じこもらないこと、むしろ心を開いて他者に関心を持つことです。」
4月27日(土)
「親愛なる若者の皆さん、あなたたちが受けた賜物を地面に埋めてしまわないで下さい。それは、神様からの贈り物なのです。恐れずに、偉大なることを夢見て下さい。」
バングラデッシュのダッカで発生した悲劇の犠牲者のために、私と一緒に祈って下さい。犠牲者の家族の上に、神様が慰めと力を与えて下さいますように。」
4月28日(日)
聖霊は、私たちをすっかり変えて下さいます。聖霊は、私たちと力を合わせて、私たちが住んでいる世界を変えることも望んでおられます。」
4月29日(月)
「1日の終わりに、『今日は人々のために愛の業を行うことができた』と私たち一人ひとりが言えるなら、なんとすばらしいことでしょう。」