フォト・ライブラリー(369)カリタスジャパン原町ベース訪問・前半〜浪江町

カリタスジャパン原町ベース訪問・前半〜浪江町

5月3日から5日まで、イエズス会教会使徒職共同推進チーム(JPACT)が呼びかけた被災地支援ボランティアの引率で福島に行ってきました。今回の滞在中に何よりも驚いたのは、カリタスジャパン原町ベースのスタッフの案内で訪ねたかつての警戒区域浪江町で見た光景でした。まずは、その写真からご紹介したいと思います。

浪江町は、東京電力福島第一原発の事故によって全域が警戒区域に指定され、無人地帯となりました。海岸部の請戸地区が避難指示解除準備区域に指定され、昼間だけ立ち入ることができるようになったのは、ようやく今年4月のことです。

検問を通り抜けて区域の中に入ると、すべてが2011年3月11日の姿のまま残されていました。

見渡す限りの荒れ地のあちこちに、津波によって無残に破壊された自動車や流された漁船が放置されていました。見渡す限り人影はありません。まるで、すべての時間が2011年3月11日のまま凍りついてしまったようです。時の流れは、人間の命の営みが作り出すものなのだと実感しました。

廃墟の中に立ち、凍りついた時間にの中に身を浸しました。一体、2年2ヶ月という時間はどこに行ってしまったのでしょう。

震災の直後は、三陸海岸の被災地でこのような光景をたびたび目にしました。ですが、これは2013年5月4日の光景なのです。

ほとんどの建物が流されてしまった海岸部に、ぽつんと残った大きな建物。請戸小学校です。

小学校の体育館の床は大きく湾曲し、陥没していました。壇上に飾られた「祝修・卒業証書授与式」の文字に胸が痛みます。

教室に残された子どもたちの勉強道具や遊び道具が、まるで昨日まで生徒たちが使っていたかのような状態で残されていました。この小学校では、教員の迅速な避難誘導によってすべての子どもが津波から逃げることができました。

子どもたちのいない音楽室にぽつんと残されたグランドピアノ。まるで、子どもたちの帰りを待っているかのようです。

小学校の隣に積み上げられたゴミと瓦礫の山。これが撤去されるのは、一体いつの日のことでしょう。

高台から、請戸地区の全域を見渡すことができました。ほとんどの建物が、土台だけを残して流されてしまったのがよく分かります。中には土台ごと流されてしまった建物もあるとのことでした。

地区の一角に設けられた慰霊碑。地区の住民の約1割に当たる150人あまりが津波の犠牲になったとのことでした。心から祈らずにいられません。

どこまでも広がる真っ青な空と白い雲。遠くの岬の向こう側に、東京電力福島第一原子力発電所があります。

ここから原発までの距離は約6キロ。岬の上に見えている大型クレーンは、おそらく原発の事故処理に使われているものでしょう。

波江町の市街地でも、時間は止まったまま。2年2ヶ月前の地震で倒壊した家屋が、倒壊したときのままの姿で放置されていました。

浪江町の町役場は、二本松市の公共施設に移転し、自治体としての機能を果たし続けています。各地の仮設住宅に散らばった住民たちを繋ぎながら、いつの日か故郷にもどれる日に備えているのです。

遠くに住んでいるわたしは、2011年3月11日から今日までのあいだに2年以上の月日が流れたと思っていました。ですが、この地域では、その時間が流れていなかったのです。この地域を残したまま、わたしたちは一体どこに行こうとしているのでしょう。