バイブル・エッセイ(350)愛を受け止める「ありがとう」


愛を受け止める「ありがとう」
わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。(一コリ11:23-26)
 いよいよ、待ちに待った初聖体の日がやってきました。緊張とうれしさで、この1年間に勉強したことを思い出せない人もいるかもしれませんが、一つだけ大切なことを思い出してください。御聖体を受け取るときに一番大切なこと、それは心からの感謝をこめて、神様に「ありがとう」と言うことです。
 先日、東京でホームレスの皆さんのための炊き出しに参加しました。たくさんのボランティアやブラザーたちが、朝早くから集まって500人分以上のカレー・ライスを作り、パックに入れて配るのです。たくさんの人たちの愛情がこもった、とてもおいしいカレー・ライスです。
 隅田川にかかる橋のたもとに着くと、もうホームレスのおじさんたちがずらっと列を作って待っていました。おじさんたち1人ひとりに、まだあたたかいカレー・ライスのパックを手渡しているとき、あることに気づきました。それは、おじさんたちの受け取り方の違いです。あるおじさんたちは、配っているわたしたちに向かってうれしそうに、「ありがとう」と声をかけていきます。何へのありがとうでしょう。それはきっと、「自分たちのために朝早くから集まって、おいしいカレー・ライスを作ってくれてありがとう」ということであり、「こんなところまでやってきて、カレー・ライスを配ってくれてありがとう」ということだろうと思います。「ありがとう」と言うおじさんたちは、カレー・ライスだけでなく、そこにこめられたたくさんの人たちの愛もしっかりと受け取ってくれたのです。
 一方で、せっかくのカレー・ライスを、つまらなそうに黙って受け取っていく人もいます。ただ機械的にカレー・ライスを受け取って、去っていくのです。まるで、「どうせ、ぼくのために作ってくれたわけではないんだろう」とすねているのかもしれません。「カレー・ライスさえあればいいんだよ」とうそぶいているようにも見えます。その人たちは、おいしいカレー・ライスを受け取ることはできますが、残念ながら大切なものを受け取り損ねています。カレー・ライスの中にこめられた、たくさんの人たちの愛です。わたしは、そのような方たちには特ににっこりほほ笑みかけ、その人たちが神様の愛に気づくことができるよう心からお祈りします。
 ミサの聖体拝領も、これと少し似ているように思います。御聖体の中にいっぱいにつまったイエス・キリストの愛に気づき、心の底から「ありがとう」という思いで受け取れるかどうかによって、御聖体の味わいがすっかり変わってしまうのです。エス様の愛に心から「ありがとう」という気持ちをこめて「アーメン」と言って受け取る人は、御聖体と一緒に、その中に一杯につまったイエス様の愛を受け取ることができます。ですが、聖体拝領の行列の中にまぎれ、つまらなそうな顔で機械的に受け取るなら、御聖体を受け取ることはできても、その中に一杯にこめられたイエス様の愛は受け取り損ねてしまうのです。
 エス様の愛を受け取れないなら、御聖体の本当の味を知ることはできません。こんな小さなわたしのために、何もできないわたしのために、たくさんの愛をありがとう。心の中でイエス様にそういいながら、初めての聖体を受け取りましょう。
※写真…六甲山高山植物園にて。クリンソウの群落。