バイブル・エッセイ(411)イエス様を囲んで


エス様を囲んで
 エスは、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」 イエスは言われた。 「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」 イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。 そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、 女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。(マタイ14:13-21)
 日が暮れかかり、集まったたくさんの人々がお腹を空かせ始めた頃、弟子たちはイエスに「群衆を解散させてください」と頼みました。それぞれが自分の食べるものを探して、ばらばらに食べればいいと考えたのです。合理的な考え方ですが、イエスはそれではいけない、群衆を「行かせてはいけない。あなたがたが彼らに食べるものを与えなさい」と言いました。ここで、みんなで一緒に食べようというのです。
 みんなで一緒にイエス様を囲んで過ごすときに、すばらしい奇跡が起こります。そのことを実感する出来事が、昨日もありました。ブロック平和記念行事として宇部教会で行われた、聖体礼拝です。御聖体を顕示台にお収めして祭壇に置き、御聖体を囲んで静かな祈りのときを過ごす聖体礼拝は、まさにイエスを囲んでみんなで一緒に過ごすひと時です。
 この祈りの中でわたしは、はっきりと神様の愛を感じることができました。御聖体からあふれ出した神様の愛が、世界の平和を願って一つになったわたしたちの心を満たしてゆくのを感じたのです。一人で祈って、自分の心が満たされていくのを感じるのとは、また別の感覚です。一人ひとりばらばらな「わたし」の心ではなく、一つに結ばれた「わたしたち」の心が、ひたひたと神様の愛で満たされてゆくのです。同時に、聖堂全体が、御聖体からあふれ出すイエスの愛に満たされていることも感じました。神様の愛は、わたしたちの心を満たす喜びであると同時に、わたしたちを包み込む大きな温もりでもあったのです。
 祈りのひと時が終わったとき、皆さんの顔はすがすがしく輝いていました。一人ひとりがイエスと出会い、イエスの手から魂の糧を受け取った証拠です。一人ひとりが、イエスの手から目に見えない愛のパンを受け取って食べ、魂を満たされたのです。
 一人ぼっちでもイエスと出会うことはできるし、イエスの愛を頂いて魂を満たされることはできます。ですが、それはなかなか難しいことです。悩み事や心配などに心をかき乱されているときには、一人で祈ろうとしても、心がイエスに向かっていかないのです。ですが、そんなときでも、一緒に祈れば自然にイエスに心が向かってゆきます。そうして、祈りの中で一つになったわたしたちの心を、イエスの愛がすみずみまで満たしてゆくのです。エスが、群衆を解散してはいけない、「ここで一緒に食べよう」と呼びかけた理由が、そこにあるとわたしは思います。
 今日も聖堂に、たくさんの人が集まっています。イエスを囲んで集まることができた恵みに、まず感謝したいと思います。一つの心でイエスの愛を受け止め、魂の飢えを満たしていただくことができますように。
※写真…夏の陽ざしの中で咲くペチュニアの花。