バイブル・エッセイ(1100)わずかな恵みに感謝する

わずかな恵みに感謝する

 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。(マタイ15:21-28)

「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と答えた異邦人の女性に向かって、イエスは「あなたの信仰は立派だ」といいました。なぜ、ここでイエスは急に態度を変えたのでしょう。女性の何が、イエスの心を打ったのでしょうか。それは、パンを丸ごと差し出しても受け取ろうとしない頑なな人たちがいる一方で、この女性が、パン屑ほどの恵みであっても感謝して受け取る心を持っていたからだと思います。ほんのわずかな恵みでも感謝して受け取る心。それが、この女性の信仰を、ひときわ立派なものにしたのです。
 わたしも、このような信仰に出会ったことがあります。以前にわたしが、ときどき病院まで御聖体を持って行っていた一人の高齢の女性の信仰です。かなり体力は落ちていたのですが、わたしが御聖体を持っていくと、彼女は必ずベッドの上で身を起こし、御聖体に向かって懸命に手を合わせました。そして、御聖体をうやうやしく受け取って拝領し終わると、わたしに向かって「こんなところにまでわざわざ来ていただいて、本当にありがとうございました」と何度もいうのです。その姿を見て、わたしは、「この人の信仰は本当に立派だなあ」と思いました。わたしは、この人ほどに感謝して御聖体を頂いているだろうかと思ったからです。
 慣れというのは恐ろしいもので、ミサの中で御聖体を頂くことさえ、機械的になってしまうことがあります。毎週、教会に行って御聖体を頂くのを当たり前のことと思い、受け取ってもあまり感謝しなくなってしまうのです。「感謝する時間が短くなる」、「すぐに別のことを考え始める」と表現してもいいかもしれません。それに対して、この高齢の女性は、ミサに出ることさえできませんが、自分のもとにまで運ばれて来た一片の御聖体を心から感謝して受け取り、その一片の御聖体で心を満たされていたのです。心から感謝する彼女の姿には、彼女がどれだけ神さまから愛されているか、神さまの愛をしっかり受け止めているかがはっきり表れていました。
 これこそ、イエスのいう「立派な信仰」というものでしょう。ほんのわずかな恵みであっても感謝して受け取り、その恵みから神さまの愛を感じ取って、心のすみずみまで神さまの愛で満たされていく。そのような人は、たとえ病床に伏し、立ち上がることができかったとしても、決して挫けることがありません。まだ食べることができる。寝ることもできる。家族と話すこともできると、一つひとつの恵みを見つけて感謝し、神さまの愛に満たされてあらゆる困難を乗り越えていきます。イエスが「立派な信仰」といったのは、そのような信仰のことなのです。たくさんの恵みを求めればきりがなく、いつまでも心が満たされることはありません。「食卓から落ちるパン屑」で満たされる信仰、わずかなことの中に神さまの愛を感じとることができる信仰の恵みを願って、共に祈りましょう。

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