バイブル・エッセイ(371)試練を耐え抜く力


試練を耐え抜く力
 ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」「これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(ルカ21:5-6,12-19)
 世の終わりが近づき、どんな試練がやってきたとしても「忍耐によって、あなたがたは命を勝ち取りなさい」とイエスは言います。大切なのは忍耐すること、逃げ出さず、その場に踏みとどまることだというのです。厳しい試練は、世の終わりを待つまでもなく、いまも次々と私たちに襲いかかってきます。どうしたら忍耐して試練を乗り越え、命を勝ち取ることができるのでしょう。
 一つの方法は、自分を信じることだと思います。どんな試練がやってきても「なにくそ、いまに見ていろ」と思って忍耐し、乗り越えるということです。例えば、小学校の頃のわたしがそうでした。小学生の頃、わたしはまったく勉強ができず、他に何か取り柄があるというわけでもなかったので、いつもみんなから馬鹿にされていました。先生にも疎んじられることが多かったように思います。客観的に見てかなり厳しい状況だったと思いますが、わたしの中には「絶対にいつか見返してやる」というまったく根拠のない自信がありました。だから、あの厳しい日々を乗り越えることができたのだろうと思います。会社員の方にからも、上司に何を言われても「なにくそ、いまに見ていろ」と思って乗り越えたという話をよく聞きます。自分への根拠のない自信、「なにくそ、いまに見ていろ」という思いは、確かに試練を乗り越える力になりうるのです。
 ですが、大人になると、そんな気にさえなれないほど厳しい状況が現れてきました。たとえば、神父になるための審査を受けていた頃のことです。10年余り勉強を続けて、ついに神父になるための最終審査が始まったとき、わたしは不安で仕方がありませんでした。もしこれで神父になれなければ、元も子もありません。ですが、いまさら何かをできるわけでもなく、もう「まな板の上の鯉」というような心境でした。神父になる許可が下りるまではとても苦しいときだったと思います。その苦しみを乗り越える手がかりになったのは、ある神父さんがかけてくれた「たとえどんな結果になったとしても、神様があなたのために一番いい道を準備して下さいますよ」という言葉でした。たとえ自分にとってはまったく受け入れがたい結果だったとしても、神様が準備してくれた道ならばそれが自分にとって一番いいのだ。そう自分に言い聞かせることで、わたしは苦しみのときを乗り越えることができました。この体験からわたしは、試練を乗り越えるためのもう一つの方法を学びました。それは、神様の手に、自分の人生をすっかりゆだねるということです。
 福音の中では、一番のピンチのときには「どんな反対者でも、対抗も、反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたに授ける」と言われています。もう自分の力ではどうにもならないというほどの苦しみの極みで神に助けを求めるとき、神は必ずわたしたちを聖霊で満たし、試練を乗り越えるための力を与えて下さるのです。絶体絶命のピンチは、命がけで神に自分をゆだね、神の大いなる力で満たされるためのときなのです。
 自分の力に頼っているうちは、無力さにうちのめされ、挫けてしまう可能性があります。ですが、神の力にすべてをゆだねてしまえば、もう何も怖いものなどありません。どんな結果がやってきたとしても、神様が準備して下さった道ならばそれが一番いい道なのです。そう確信するとき、わたしたちはどんな試練も耐え抜くことができるでしょう。神様が準備して下さった道、永遠の命へと続く道を忍耐強く歩き続けましょう。
※写真…京都、嵐山の紅葉。