バイブル・エッセイ(400)『自分を乗り越えてゆく道』


自分を乗り越えてゆく道
 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネ14:1-7)
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」とイエスは言います。イエスの後に続き、イエスが歩んだのと同じ道を通らなければ、誰も天国に入ることはできないということでしょう。では、イエスの道とは何でしょう。それは、まっすぐに十字架へと続く道。神の愛に身を委ね、自分を乗り越えて進んでゆく道です。この道を通らなければ、誰も救われることができないのです。
 自分を乗り越える、自分を捨てるというのは、言うのは簡単ですがとても難しいことです。誰もが心の中で、自分の思った通りの自分になり、自分の思った通りの世界が実現するようにと願っているからです。わたしたちの苦しみの99%は、何かが自分の思った通りにならないことから生まれてくると言うことさえできるでしょう。自分の思った通りの大学に入れなかった、自分の思った通りの業績を上げることができなかった、家族が自分のことを十分相手にしてくれない、社会が自分を受け入れてくれない。自分の思った通りに生きられない、周りの人が自分の思った通りに動いてくれない。わたしたちの悩みの根底にあるのは、自分を、そして世界を自分の思った通りに動かしたいという人間の大それた望みなのです。
 イエス自身でさえ、十字架に至る道で自分を乗り越えるための苦しみを味わいました。「もしお望みならこの盃を取り除けて下さい」、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というイエスの言葉の中には、自分の思いと戦うイエスの姿が表れているように思います。しかし、イエスはそれでも神の愛を信じ、神の愛に身を委ねました。苦しみのどん底で神の手に自分を委ねきったとき、復活の命がイエスに宿ったのです。天国への道、救いへの道が開かれたのです。十字架と復活の神秘は、自分自身との戦いを苦しみ抜き、最後に自分をすっかり神の手に委ねたときにこそ天国に至る道が開かれるということをわたしたちに教えてくれます。苦しみからの突破口は、苦しみの一番奥深くにあるのです。
 大きな苦しみにあったとき、わたしたちは苦しみから逃げようとしてしまいがちです。ですが、どんなに逃げても、苦しみから逃げ切ることはできません。逃げても逃げても、苦しみは追いかけてきます。むしろ苦しみと正面から向かい合い、その苦しみを苦しみ抜くことが大切だと思います。苦しみのどん底で自分が打ち砕かれるとき、神の愛を信じてすべてを委ねきるときにこそ、救いへの道が開かれるからです。自分には世界を変える力がない、自分には自分自身さえ思った通りにする力がないと心の底から悟り、神の愛にすっかり身を委ねたときにだけ、救いへの道が開かれるのです。
 恐れる必要はありません。この道をすでにイエスが歩み、わたしたちの歩みにいつもより添って下さっているからです。聖母マリアも、わたしたちと共にいて下さいます。イエスと共に、聖母と共に、この十字架の道、自分を乗り越え救いへと至る道を歩み続けましょう。