バイブル・エッセイ(571)恐れる必要はない


恐れる必要はない
 ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」 そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(ルカ21:5-19)
 驚くようなことが起こったとしても、「惑わされないように気をつけなさい」とイエスは言います。「世の終わり」には、どうやら次の二つのことが起こるようです。一つは、人々の恐怖心に乗じて私利私欲を図ろうとする偽預言者の登場。もう一つは、絶望やあきらめ、自暴自棄な行動の蔓延です。ですが、何が起こったとしても、「世の終わり」を恐れたり、絶望したりする必要はまったくありません。なぜなら、「世の終わり」とは「神の国の到来」であり、すべての人が「神の子」として幸せに暮らせる世界の実現だからです。
「世の終わり」はいずれにしても大きな変革ですから、中には神様を信じ切れず、将来に不安や恐れを抱く人たちも出てくるでしょう。将来についての不安や恐れは、自分の将来を脅かすかもしれない人たちに対する怒りと憎しみを生みます。そのような人たちを排除しての不安を取り除いてやる、終末の到来を遅らせてみせると約束する偽預言者が、人々から圧倒的な支持を集めるでしょう。こうして、民族と民族、国と国、宗教と宗教のあいだに分断が生じ、争いが起こるのです。こうして、不安や恐れに駆られた人たちは、「世の終わり」が来る前に、自分たち自身で滅亡への道を歩み始めることになります。
 不安と恐れは、争いだけでなく、絶望やあきらめ、ペシミズムも生み出します。「どうせだめだから、もうどうにでもなれ」という心の動きこそ、典型的な悪魔の誘惑です。まだまだどうにかなる状況でも、悪魔はわたしたちの心の中の不安と恐れを無限に増幅させ、わたしたちを絶望の底に落としてしまうのです。悪魔の誘惑に乗って絶望すれば、わたしたちは実際に滅びてしまうでしょう。自暴自棄になった人々は、「世の終わり」が来る前に、自分で自分を滅ぼしてしまうのです。
 最大の敵は不安と恐れです。「世の終わり」に何が起こったとしても、わたしたちは何も恐れる必要がありません。なぜなら、どんな困難が訪れたとしても、神様が必ず一番よい道を準備して下さるからです。やって来るのは破滅ではなく、救いの完成であり、「神の国」なのです。この確信が揺らぐとき、わたしたちの心に不安と恐れが生じ、自分勝手なよくない考えが心に入り込んできます。たとえば、「世の終わり」に、貧しい国々の人々が国境を越えて豊かな国にやって来れば、豊かな国の生活の水準が下がるかもしれないという恐れが生じるかもしれません。ですが、それでも幸せに暮らしてゆくために十分なものを、神様が必ず与えてくださるでしょう。そう信じて、すべての人々が幸せに暮らせる世界の実現、「神の国」の実現に向かって邁進し続けることが大切です。
 恐れや不安によって自滅してしまうことなく、「終わりの日」を迎えるために必要なのは信仰です。「神がすべてを一番よくしてくださる」と信じ、不安や恐れ、絶望に耐え抜くことで「永遠の命」を与えていただくことができるように祈りましょう。