バイブル・エッセイ(377)『聖なる家族』


『聖なる家族』
 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。(マタイ2:13-15)
 「聖家族」は、よく考えてみれば不思議な家族です。聖霊によって宿ったイエスと、ヨセフの間には血のつながりがないのです。ですが、イエスとヨセフ、そしてマリアは、父なる神によって一つの家族として結ばれました。「聖家族」とは、人間の思いをはるかに越えた神の愛よって一つに結ばれた家族のことなのです。
 子は親を敬い、親は子どもを大切にする。妻は夫に尽くし、夫は妻をいたわる。聖書はそのような家族の理想を説いていますが、実践するのはなかなか難しいことです。わたし自身も、子どものころは父親に対して強い反発を抱いていました。埼玉の田舎で江戸時代から農業をしている家の長男として育ったうちの父親は、頑固で昔気質の、筋金入りの農民でした。ぶっきらぼうでほとんど話さないし、いつも地下足袋に作業ズボン、腹巻をまいて、首からはタオルを下げているのです。わたしは子ども心に、なぜうちのお父さんは他の家のお父さんのように優しくて話しのわかる人ではないのか。なぜ、もう少し服装に気をつけないのかと、いつも思っていました。レストランなどにもいつもの地下足袋で行くので、わたしはあるときから父と一緒には絶対に外食しないと決めたくらいでした。高校生、大学生になってもそのような状態が続きました。そして、そのように反発しているうちに、父はあるとき心筋梗塞で急に死んでしまったのです。
 20年が過ぎて父のことを思い起こすとき、子どものころのわたしは、父に多くのものを期待しすぎていたのではないかと思います。「父親は優しくて、ものわかりがよく、服装に気をつけるべきだ」という自分の思いを父に押し付け、その通りでないことに腹を立てていたのです。自分が不完全な子であることは棚に上げて、父に完全な父であることを求めていたのです。今から思えば、父は父なりにとてもよくやっていたと思います。不器用で、武骨ではありましたが、家族を大切に守り抜いたのです。完全ではなかったかもしれませんが、神から与えられた使命、父親としての使命を十分に果たしていたのです。
 どうもわたしたちには、自分のことを棚に上げて、家族に対して完全であることを求めてしまう傾向があるようです。「父親なんだからこうあるべき」、「妻はこうあるべき」、「子どもはこうあるべき」という理想を、一方的に相手に押し付けてしまうのです。ですが、実際には、家族の誰もが不完全な人間であり、完全にその使命を果たせる人などいません。不完全な人間が神の愛によって集められ、親や子、夫や妻という使命を与えられたところに、家族の神秘がある。そのことを忘れないようにしたいと思います。
 「聖家族」の理想に近づいていくために、まず互いが互いへの過剰な期待を捨て、親も子も、妻も夫も、神の前では同じように不完全な存在であることを認め合うことが出発点になるでしょう。子どもは親を、親は子どもを、夫は妻を、妻は夫を、弱くて不完全な一人の人間として、それでも神から与えられた大切な家族としてありのままに受け入れる。そのとき家族は、人間の思惑ではなく神の愛によって結ばれた真の家族、「聖家族」になってゆくのです。イエス、マリア、ヨセフの模範にならって、神の愛に結ばれ、神の愛に捧げられた聖なる家族を実現できるよう祈りましょう。
※写真…ライトアップされたカトリック津和野教会。