バイブル・エッセイ(432)『まずは聞くことから』


『まずは聞くことから』
 エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」(ルカ2:25-35)
 シメオンは、マリアに「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と告げました。イエスが受ける誉れに共に与るだけでなく、イエスの苦しみも共に味わうということです。家族の中では、誰か一人の喜びは全員の喜びであり、誰か一人の苦しみは全員の苦しみだということを、この預言はわたしたちに思い出させてくれます。
 この世界は厳しい競争社会です。誰かが名誉や地位、財産などを得て喜んでいることを見れば、まるで自分の喜びを横取りされたかのように考えて腹を立てる。逆に、誰かがそれらを失って苦しんでいるのを見れば、「いい気味だ」と思って喜ぶ。それが、この世の常だと言っていいでしょう。自分のこと以外には関心がない人、自分以外は、皆ライバルと思っている人が多いのです。そのため、人の嫉妬を招かないため、あるいは人から馬鹿にされないために、自分の喜びも、苦しみも人と分かち合わず、隠しておくしかありません。
 荒涼とした砂漠のようなこの競争社会にあって、家族はオアシスのようなものです。家族だけは、自分の喜びをまるで自分自身のことのように喜んでくれるし、自分の苦しみを自分自身のことのように苦しんでくれるからです。社会では誰にも打ち明けられなくても、家族には何でも自分の本心を打ち明けることができます。
 喜びは、誰かが自分自身のことのように喜んでくれることによって何倍にも大きくなります。誰かが自分に関心を持ってくれている、自分のことを大切に思ってくれているという事実が、喜びを倍増させるからです。苦しみは、誰かが自分自身のことのように苦しんでくれることで、何分の一かに小さくなります。誰かが自分に関心を持ってくれている、自分のことを大切に思ってくれているという事実が、苦しみを小さくするのです。こうして、家族の中でわたしたちの喜びはより大きくなり、苦しみは小さくなってゆくのです。
 愛に満たされた家庭で生きている人は、社会に出ても争うことがありません。すでに必要な愛を十分に受けているので、更にそれを手に入れようとして人と争う必要がないのです。そのため、他の人が愛を手に入れて喜んでいれば、まるで自分のことのように喜べるし、愛を失って悲しんでいれば、まるで自分のことのように悲しむことができるようになります。愛に満たされた家庭で生きている人は、自分自身が無条件に愛されているように、他の人を無条件に愛することができるのです。こうして、家族を満たした愛の喜びは、社会へとあふれ出してゆきます。幸せな社会は、幸せな家族から始まるとさえ言っていいでしょう。
 聖家族は、家族の誰かの喜びを、全員が自分自身のことのように喜び、家族の誰かの苦しみを、全員が自分自身のことのように苦しむことができる家族でした。互いが互いにまるで自分自身のように関心を持ち、互いが互いをまるで自分自身のように大切にするのが、イエス、マリア、ヨセフの聖家族だったのです。
 先日、フランシスコ教皇が、家庭に幸せと安らぎをもたらすためには「聞くこと」が大切だとおっしゃいました。家に帰っても、誰も自分の話を聞いてくれない。お互いが自分の言いたいことだけを主張し合うということでは、家族も競争社会の延長線上でしかなくなってしまいます。聞いて相手の気持ちを受け止め、それに共感する。それが、共に喜び、共に悲しむということの始まりです。聖家族の理想に近づいてゆくために、まず、家族の話を聞くことから始めてみてはどうでしょうか。
★先週のバイブル・エッセイ『神にできないことは何一つない』を、音声版でお聞きいただくことができます。どうぞお役立てください。