祈りの小箱(97)フランシスコ教皇『愛を具体的なものにするために』


フランシスコ教皇『愛を具体的なものにするために』
 イエズス会創立者、聖イグナチオは『霊操』の中で、愛について次のように述べています。
「第一、愛は、言葉よりも行いにあると考えるべきである。第二、愛は両者の間の交換にある。すなわち、愛する人が持つものを、又は持つものと自分に可能なものから愛される人に分け与え、一方、愛される人も、愛する人に対して同じくするところに愛がある。」
 今日ご紹介するフランシスコ教皇の言葉は、この聖イグナチオの言葉を受け、さらに発展させたものと考えていいでしょう。「愛は言葉よりも行動」であるという原則を踏まえた上で、さらに「愛においては、受け取ることよりも与えることの方が大切」だというのです。愛は互いに愛し合うことによって完成するものだったとしても、わたしたちは、相手の犠牲を求めることではなく、誰かのために自分を犠牲にすることから愛を始めるべきだということでしょう。誰かのために自分を差し出すことこそ、行いになった愛、具体的な形での愛だというのです。
 確かに、わたしたちは「愛」という名のもとに自分以外の人に多くを求めてしまいがちです。「あの人は××してくれなかった。愛がない」、「愛しているなら、○○してくれて当然だ」などと、「愛」の名のもとに相手から受け取ることばかりを求めてしまいがちなのです。愛を真実のもの、双方向のものにしたいなら、まず相手のために自分を差し出すことから始めるべきでしょう。自分は何も差し出さずにいて、相手から受けることばかり求めるなら、その人は相手を愛しているのではなく、自分を愛しているのです。そのような行動は、愛ではなく、むしろエゴイズムと呼ぶべきでしょう。
 神に対しても同じことが言えると思います。神を愛していると言いながら、神が愛を与えてくれないことを責め、不満ばかり言っているなら、その人は神を愛しているのではなく自分を愛しているのです。もし本当に神を愛しているなら、神の御旨のままに自分を差し出すことから始めるべきでしょう。自分を差し出すことで生まれた心の空間に、神は豊かに愛を注いでくださるはずです。わたしたちが先に差し出すわけではありません。神の愛はすでに豊かに注がれているからです。そのことに気づいて自分を差し出すことで、わたしたちはその愛を受け止めることができる。そのときはじめて、神とわたしたちのあいだに、愛し、愛される愛の交わりが完成するということなのです。もしわたしたちが自分を与え尽くすなら、神もわたしたちにご自分の愛のすべてを与えて下さるでしょう。人間との関係でも、神との関係でも、求めることよりも、与えることから愛を始めたいと思います。
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※写真…大阪城公園梅林の寒紅梅。