祈りの小箱(54)フランシスコ教皇『キリストの選手』


フランシスコ教皇『キリストの選手』
 今回ご紹介するのは、リオでのワールド・ユース・デーの期間中に、教皇様が若者たちに語りかけた言葉です。キリストのために命がけで働く人という意味で、教会は伝統的に「キリストの兵士」(二テモ2:3)という表現を使ってきましたが、今回、教皇様は「キリストの選手」になるようにと若者たちに呼びかけたのです。
 「キリストの選手」になるとは、一体どういうことでしょう。まず、「キリストのチーム」という言葉の意味から考えたらいいと思います。「キリストのチーム」とは、キリストが、地上の罪や悪に打ち勝ち、神の栄光を輝かせるために集めたチームのこと。すなわち教会に他なりません。わたしたちは、教会という大きなチームの選手なのです。サタンが、地上を罪や悪で覆い、神の栄光を滅ぼすために集めたチームと戦うこと。それこそがわたしたち選手に与えられた使命です。
 チームの一員として大切なことは、あくまでもチームとして戦うということです。もし自分が目立つために派手なプレーばかりしたがる選手がいれば、その人がどんなに活躍したとしても、チームは迷惑するばかり。選手に求めているのは、チーム全体を勝利に導くために役立つプレーをすることだけです。華やかなプレーも、地味なプレーも、ただチームの勝利のために全力でこなしていく。それが選手に求められることだと思います。選手にとって本当の勝利は、自分が勝つことではなく、チームが勝つことなのです。教会というチームの一員としてのわたしたちにも、まったく同じことが言えるでしょう。小さなことも大きなことも、教会の勝利という唯一の目的のため、全力でこなしていくことが求められています。
 チームは、わたしたちを使うだけの存在ではありません。チームは、逆にわたしたち一人ひとりのために存在するものだとも言えます。チームは、苦しみのときには寄り添い、喜びのときには共に喜んでくれる仲間なのです。一人ひとりを大切にしながら、全員で勝利を目指して戦うこと、それがチームの目的なのです。わたしたちを一人残さず救うために来られたキリストが集めた教会というチームには、そのことがもっとよく当てはまるでしょう。教会というチームは、わたしたち一人ひとりの救いのために存在するのでする。チームの一人ひとりを救えないなら、教会は存在する意味がないと言ってもいいくらいです。
 わたしたち一人ひとりが、チームの中で大切な役割を与えられた「キリストの選手」。その自覚をしっかり持って、キリストの勝利のために、力を合わせて戦い抜きましょう。
※写真…クリケットに興じる若者たち。カルカッタ、ザビエル大学の運動場にて。
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