バイブル・エッセイ(383)『内なる愛の光』


内なる愛の光
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。  もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5:13-16)
 「あなた方の光を人々の前に輝かせなさい」とイエスは言います。わたしたちの光とはいったいなんでしょう。それは、わたしたち一人ひとりの心の中に燃える愛の炎。すべての人の心の中に、神様がともして下さった愛の光ではないかと思います。
 どんな人の心の中にも、愛があると実感させられた一つの出会いがあります。昔、東京で野宿者の夜回りに参加していた頃、とても乱暴な野宿者の男性に出会いました。体は大きく、口も悪くて、おにぎりを配るボランティアに絡んだり、怒鳴ったりします。わたしはその人が苦手だったのですが、不思議なことに他の野宿者の方たちの間で彼は慕われていました。すべてを失って公園にやって来たばかりの人がベンチに座って途方に暮れているとき、最初に声をかけ、段ボール集めや家の作り方を教えるのが彼だというのです。その話を聞いて、わたしは本当に驚きました。彼の心にも、困っている人を放っておくことができない確かな愛があったのです。それが、乱暴な外見に邪魔されて、わたしには見えていなかったのです。
 どんな人の心の中にも、確かに愛があると思います。苦しんでいる人、気の毒な人を見ると、放っておくことができなくなるのがその証拠です。ですが、その愛はふだん堅いエゴの殻の中に隠れています。「升の下」に隠されてしまっているのです。苦しんでいる人を見て放っておくことができなくなったときに、その殻が破れ、升が取り除かれて、わたしたちの中から愛の光が輝きます。それが、「あなたの光が輝く」ということでしょう。
 街中で、電車の中で、教会で、あちこちでそのような光を見ることができます。例えば、お年寄りが電車の切符を買おうとして財布の小銭をばらまいたとします。すると、これまで互いに無関心に通り過ぎていくだけのように見えた通行人たちがさっと手を差し伸べ、腰をかがめて拾い集めるのです。日本では当たり前の光景ですが、そんな光景を見ると、薄暗く見える世の中のその一角にぱっと光がともったように感じます。
 ミサの最中にも、そのような愛の光が皆さんの顔にともっていくのがはっきりと分かります。暗い顔をして聖堂に入ってきた人の顔が、ミサが進んでいくにつれて明るくなり、あちらで一つ、こちらで一つと光り始めるのです。神様の愛に出会って、その人の心に愛の光がともったのでしょう。たとえ小さな光であっても、あちこちにそのような愛の光がともれば、この世界はずいぶん明るくなるはずです。
 周りの人々の苦しみや悲しみに気づいて、誰かのために輝く光になりたいと思います。わたしたちの苦しみや悲しみに寄り添って下さる神様の愛に気づいて、神様の愛によって輝く光になりたいと思います。わたしたち一人ひとりが、そして教会全体が、「山の上の街」、「燭台の上に置かれたともし火」となり、この街を、日本を、そして世界を照らす光となるよう祈りましょう。
※写真…フィリピン、マリキナ渓谷から昇る朝日。