バイブル・エッセイ(385)「父なる神の子となるために」


父なる神の子となるために
「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたし は言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向け なさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン 行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りよ うとする者に、背を向けてはならない。あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは 言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるため である。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる からである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人 でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをし たことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が 完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:38-48)
 「父なる神の子」「完全な者」になるようイエスは呼びかけています。「父なる神の子」「完全な者」とは、どんな人のことでしょう。それは、すべてにおいて神の御旨を生きる人。自分の思いではなく、神の思いを実現するために生きる人のことだと思います。
 イエスを通して示された神の思いの中で、一番難しそうに見えるのが、「左の頬を打たれたら、右の頬を差し出しなさい」「敵を愛し、あなたを迫害する者のために祈りなさい」というこの教えです。いったいどういうことなのでしょう。悪に対して抵抗するなということでしょうか。そうではないと思います。エスが言いたいのは、暴力によってではなく、愛によって悪に打ち勝ちなさいということでしょう。
 神の思いは、被造物であり、子である人間が、一人も滅びずに救われることです。どんな罪人、悪人であっても、神は救いたくて仕方がないのです。神は、迷い出た1匹の子羊をどこまでも探しに行く方であり、家を飛び出した放蕩息子をいつまでも待ち続ける方なのです。そこに、わたしたちの希望、救いがあります。わたしたちがどれほど弱く、罪深かったとしても、神は決してわたしたちをお見捨てになることはないのです。
 同じことが、わたしたちの敵にも言えます。たとえば、理由もなく当たり散らしたり、暴言を吐いたり、いやがらせをしたりするような人は、ゆるしがたい敵と感じられるでしょう。ですが、わたしたちを救って下さった神は、そのような人たちも救いたいと切望しておられるのです。そうだとすれば、わたしたちが敵に対して何をすべきかは明らかでしょう。わたしたちの使命は、敵を滅ぼすことではなく、敵さえも大いなる神の愛で包み込むことなのです。
 敵も、わたしたちと同じように弱くて不完全な神の子、傷ついた神の子だということを忘れないようにしたいと思います。たとえば、嫁をいじめる御姑さんや、部下につらく当たる上司の中には、自分も若いころに同じ目にあったという人が多いのです。自分自身が嫁いできたときに御姑さんから厳しくされた、上司から理不尽なことを言われて苦しんだというような体験を持つ人が、自分が逆の立場に置かれたときに同じことをしてしまうのです。あるいは、周りの人とすぐに喧嘩をしたり、自慢話ばかりしたり、僻みや妬みに駆られて悪口を言ったりする人は、これまで十分に人から愛されていなかった人である場合が多いようです。彼らが喧嘩をしたり、自慢話をしたり、悪口を言ったりするのは、愛してほしいからなのです。
 もし相手が傷ついているのならば、神の愛によってその傷をいやすのが私たちの使命です。まずは、その人のために祈ることから始めましょう。怒りに怒りを、悪意に悪意を返さず、相手の傷に辛抱強くより添ってゆきましょう。神の愛で相手を包み込んでゆきましょう。特に、相手が自分の家族や教会の仲間であるような場合には、本当にそれ以外に方法がないと思います。
 「父なる神の子」「完全な者」として生きられるように。敵さえも愛することで、神の御旨を生きる者となれるように。そのための恵みを神に願いたいと思います。
※写真…京都、城南宮のしだれ梅。