バイブル・エッセイ(395)『イエス・キリストは生きいてる』


イエス・キリストは生きている』
 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。(ヨハネ20:1-10)
 イエス・キリストは死者たちの中にはいない、イエス・キリストは生きている。今日の福音は、そのことをはっきりと告げています。イエス・キリストは生きている。復活とは、それ以外のなにものでもありません。イエス・キリストは生きている。その事実こそが復活であり、わたしたちの救いそのものなのです。
 イエス・キリストは生きている。なぜ、そんなことが言えるのでしょう。何よりの証は、わたしたちが日々、キリストと出会っているということです。たとえば、聖堂に入って座っていると、家や会社などでのさまざまな出来事で乱れていた心がしだいに沈められていきます。そして、心が軽くなり、少しずついい気持ちになってくるのです。安らぎや慰めが、心を満たしていくと言ってもいいかもしれません。なぜでしょう。それは、わたしたちが聖堂でキリストと出会ったからです。姿は見えないけれど、キリストが確かにわたしたちの隣に座り、わたしたちの手を握り、肩を抱いてわたしたちを励まして下さった。だからこそ、わたしたちは安らぎと慰めを感じるのです。
 ミサが始まって聖書が読まれるとき、そこでもわたしたちはキリストと出会います。よく耳を澄まして聴いていると、朗読台から読み上げられる聖書の言葉の中に、司祭の説教の中に、なぜかわからならいけれども、必ずそのときの自分にとって一番必要な言葉が含まれていることに気づくのです。なぜでしょう。それは、目に見えないけれどもキリストが生きていて、わたしたち一人の心に寄り添いながら、優しく言葉をかけて下さっているからです。
 聖餐式の中で、御聖体のパンの形を通してわたしたちはキリストと出会います。心からの感謝を込めてご聖体を仰ぎ、司祭の手から受け取って頂くとき、わたしたちの心を暖かな愛と安らぎ、力が満ち溢れます。それは、生きているキリストの目に見えない愛が、そのご聖体の中に満ちあふれているからです。姿は見えないけれど、イエスはご聖体を通してわたしたちを優しく見つめ、御聖体の中に満ちあふれた、生きている愛によってわたしたちの心を満たして下さるのです。御聖体を見つめていて心に喜びがあふれたなら、それは御聖体の中から見つめて下さっているイエスの目とわたしたちの目があったしるしだと言ってもいいかもしれません。
 ミサの前後にも、わたしたちはキリストと出会います。教会で懐かしい友だちと出会い、優しく迎え入れられるとき、ミサを終えて一緒に食事をしているときなどにも、わたしたちの心は喜びで満たされてゆくのです。「来てよかった。ここにわたしを必要としてくれる人がいる。わたしの居場所がある」と、わたしたちは強く感じます。そのとき、わたしたちはキリストと出会ったのです。キリストの生きている愛が教会の人々の心に宿り、わたしたちを優しく迎え、包み込んでくれたのです。生きているキリストが、人々を通してわたしたちを愛して下さったのです。
 このようにして、わたしたちは日々、生きているキリストと出会っています。キリストは墓などにはいないのです。生きていて、いつもわたしたちに優しく語りかけ、励まし、力を与えて下さっているのです。キリストは死んでなどいない。キリストは生きている。そのことを、キリストと出会って喜びに輝くわたしたちの笑顔によって、キリストの愛に満たされた行いによって、力強く証してゆきましょう。
※写真…六甲山のミツバツツジ