マザー・テレサに学ぶキリスト教(21)エウカリスチアの秘跡②

第21回エウカリスチアの秘跡
Ⅰ.エウカリスチアの秘跡とは何か
3.聖体拝領
 エウカリスチアの秘跡の中で御聖体を拝領することにはどのような意味があるのでしょうか。また、御聖体を拝領するために、わたしたちはどのような準備をしたらいいのでしょうか。
(1)準備
①心の準備
 御聖体を拝領する前には、本来自分が神様の恵みに値しないような罪深い人間であることを認め、神の愛を信頼する必要があります。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、一言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」(マタイ8:8)という百人隊長の言葉を自分のものにする必要があるのです。
 自分は正しい者だから、イエスの救いはそれほど必要がないというような態度では、御聖体の中に満ち溢れているイエスのいのちにあずかることはできません。御聖体をいただいたとしても、その人の心が閉ざされているなら、イエスのいのちはその人の心に入っていくことができないからです。御聖体を拝領する前には自分の罪深さを認め、心を開いてイエスに助けを求める必要があります。
 なお、自分が神様の前で大きな罪(大罪)を犯しているという自覚がある場合、ミサの前に告解の秘跡を受けなければなりません。いずれにせよ、神様に合わせる顔がないような大きな罪があっては、ミサに出ても落ち着かないでしょう。
②身体の準備
 聖体拝領前の1時間、食事を摂ってはいけないことになっています。ミサが始まる1時間前からは、水と薬以外のものを口にしてはいけないということです。但し、病人はこの義務が免除されます。
(2)拝領の仕方
 『ローマ・ミサ典礼書の総則』は、司祭が「キリストの体」と言いながら示した御聖体を、拝領者は「『アーメン』と答え、口で、あるいは許可されている場合は手で秘跡を受ける」と記しています。原則は、司祭が拝領者の舌の上に乗せる形での拝領だということです。そのため、マザーはいつも口で御聖体を拝領していました。
ですが、日本の司教団は教皇庁から特別な許可を受けているので日本では手で御聖体を受けることができます。この許可は、日本の文化に配慮したものです。手で受ける場合、左手を右手の上に乗せて左手で受け取り、右手で御聖体を口に運ぶことになります。
(3)聖体拝領の恵み
①キリストとの一致
 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」(ヨハネ6:56)という御言葉の通り、御聖体をいただくときわたしたちはイエスと固く一つに結ばれます。御聖体をいただくとき、わたしたちはイエスの永遠の命に触れ、聖霊を注がれ、喜びと感謝と力に満たされるのです。わたしたちが生きるために本当に必要な恵みは、すべて聖体拝領でいただくことができると言っても過言ではないでしょう。
 マザーは、「神の愛の宣教者会」のシスターたちがスラム街での過酷な活動のための力をどこから与えられているかと問われて次のように答えています。
 「それは御聖体のいのちのパンから来られるキリストと、シスターたちが結びついていることの証なのです。イエスは、わたしたちにいのちを与えるために、ご自分の体でわたしたちを養うのです。」
 「神の愛の宣教者会」のシスターたちは、御聖体に満ち溢れたイエスのいのちの力をいただいているからこそ、どれほどの困難があってもそれを乗り越えて貧しい人々に仕えることができるのです。わたしたちも、この力の源に心を開きたいものです。
②罪のゆるし
 御聖体をいただくことで、わたしたちは小さな罪(小罪)をゆるされます。神様に対してちょっと申し訳ないなあと思うくらいの罪は、告解の秘跡に与らなくても、御聖体を拝領すればゆるしていただけるのです。御聖体をいただくとわたしたちの心に神様への愛の炎が燃え上がりますから、結果として罪に近づかないようにもなります。
③教会との一致
 「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」(1コリント10:16-17)と言われている通り、御聖体をいただくとき、わたしたちは教会という一つの身体にしっかりと結ばれます。

Ⅱ.ミサの成り立ちと意味
 次に、ミサの成り立ちと、各部分が持っている意味についてお話ししたいと思います。Ⅰでお話ししたことが、実際のミサにどのように反映されているのかを確認してきましょう。

1.ミサの構造
(1)2つの部分
 ミサは大きく言って2つの部分から成り立っています。それは、聖書の朗読と歌を中心とした「言葉の典礼」と、聖変化を中心とした「感謝の典礼」です。「言葉の典礼」の間、司祭は通常、祭壇から離れたところに置かれている朗読台を使って式を進めていきます。「感謝の典礼」が始まるとき、初めて司祭は中央に置かれた大きな祭壇に移動します。祭壇は、イエスが「最後の晩餐」で用いた食事のテーブルの象徴であると同時に、イエスの体と血を神に捧げる「いけにえ」の祭壇の象徴です。この2つの部分の前後に入祭と閉祭の儀が置かれることで、ミサが出来上がります。
(2)それぞれの意味
 信者は、まず「言葉の典礼」において聖書と説教を通して神の御旨がどこにあるのかを教えられ、続いて「感謝の典礼」でキリストの体と血によって養われます。「言葉の典礼」で教えられたことを実行するために必要な力や勇気、そしてそれを喜んで行うための恵みが「感謝の典礼」で与えられるということでしょう。
 もっとも、「最後の晩餐」には聖書朗読や説教がなかったはずです。ですが、後に聖書の説明とパンを割く式は、イエス・キリスト御自身によって密接なものとして結ばれました。イエスはエマオに向かう弟子たちに現れたとき(ルカ24)、まず聖書の言葉を説明し、そのあと弟子たちのためにパンを割いたのです。ここに、聖書の朗読および説明とパンを割く式が続けて行われることの根拠があります。

2.ミサにおけるキリストの現存
 ミサにおいてキリストが現存することは間違いありませんが、では具体的にどこにおられるのでしょうか。第二バチカン公会議の「典礼憲章」は、次の4つをあげています。
(1)御聖体の両形態のうちに
 御聖体は御血と御体という2つの形態から成っていますが、その両方の形態の中にイエス・キリストがおられます。
(2)司祭のうちに
 イエス・キリストは、司祭のうちにも現存しています。イエスは、司祭の奉仕を通してミサの中でご自分自身の血と体を神に奉献するのです。
(3)御言葉のうちに
 イエスは、朗読される聖書の言葉の中にもおられます。イエスは聖書朗読を通して、かつてエマオで弟子たちに語ったように、今わたしたちに聖書の言葉を語りかけておられるのです。
(4)教会の懇願と賛美の歌のうちに
 「わたしの名によって2、3人が集まる所に、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)という御言葉の実現として、イエスは教会が声を合わせて神に祈願し、賛美の歌を捧げるとき、わたしたちのあいだにおられます。司祭の中だけでなく、会衆の中にもイエスはおられるのです。

3.「言葉の典礼
 具体的には、第1朗読から共同祈願の後の沈黙までのあいだです。その間で最も大切なのは、聖書朗読とその間の歌だと『ローマ・ミサ典礼書の総則』は述べています。説教や共同祈願は、それを展開し、結ぶという役割を与えられています。各部分をより細かく見てみましょう。
(1)聖書朗読と説教
 聖書朗読と説教は、神様による贖いと救いの神秘を解き明かすものです。つまり、司祭はイエスに代わって神様の御旨を解き明かす使命を負っているのです。聖書の言葉に秘められた救いの力を、できるだけわかりやすい言葉で会衆に説明し、伝えるのが司祭の役割だということでしょう。
(2)沈黙と歌
 沈黙の時間は、聖書の御言葉や説教によって教えられたことを自分のものにしていくために大切な時間です。御言葉から学んだことは、歌によって表現することで、心の奥深くにまで浸みこんでいきます。
(3)信仰宣言
 信仰宣言を唱えることで、わたしたちは教会の伝統的な信仰を自分のうちに統合していきます。
(4)共同祈願
 御言葉と説教を通して学んだ神様の御旨が、全教会と全世界に実現していくように共同で祈りを捧げます。