バイブル・エッセイ(407)『わたしの荷は軽い』


『わたしの荷は軽い』
 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:25-30)
「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」とイエスは言います。はたして本当にそうでしょうか?イエスが背負っている十字架を見て下さい。イエスに従えば、わたしたちもこの十字架をイエスと一緒に担わなければならないのです。いったい、どこが「わたしの荷は軽い」のでしょう。エスが言いたいのは、イエスが荷をかけ直せば、どんな重い荷物も軽々と背負えるようになる。イエスと一緒に担うなら、どんな荷物も重くない、ということではないかと思います。
 物理的に何十キロもある荷物は別として、わたしたちが生活の中で担う「荷物」、日々の仕事や家事などの重さは、わたしたちの気持ちによってずいぶん変わってくるものです。荷物を重くするのはわたしの体験上2つ、①こんなことをしても無意味だという思いと、②なぜわたしだけがこんなに働かなければならないのかという思いです。
 仕事に意味を見出せなくなると、途端に仕事が重荷に感じられるようになるものです。たとえば、わたしは普段、3つの教会と3つの幼稚園のあいだを駆けまわりながら仕事をしています。いつも元気いっぱいにやっていますが、疲れがたまってくると、ふと「なぜ、わたしはこんなに忙しいんだろう。何のためにこんなことをしているのだろう」という思いが心に入り込んでくることがあります。するとどうでしょう。これまで何でもなく、楽々とこなしていた仕事が、突然耐えがたいほど重い荷物に感じられるようになるのです。「こんなことをしても時間のムダ、自分が本当にすべきことは他にある」、そう思うようになると、仕事は苦役以外のなにものでもなくなります。
 そんなとき、わたしは気を取り直し、自分が何のためにこの仕事をしているのかを思い出すようにしています。幼稚園の子どもたちの笑顔やお母さんたちの苦しみ、教会に救いを求めてやって来る人たちの顔を思い出すのです。「神様の愛をこの人たちに届けることがわたしの使命だ。神様のために、この人たちのために頑張ろう。」そう思えると、その瞬間から、耐えがたいほどの苦役に思えた仕事がまたやり甲斐のある仕事に戻ります。どんなに多忙な毎日でも、すべての重荷を楽々と担うことができるようになるのです。これは、本当に不思議なことです。
「なぜ、自分だけがこんなに忙しく働かなければならないのか」、「なぜ誰も助けてくれないのか」、そんな気持ちになったときにも、荷物は重みを増します。そんな思いがやってきたとき、わたしは、「この荷物を担っているのは、わたしだけではない。イエスが一緒に担ってくれている」と思うようにしています。すると、荷物がぐっと軽くなり、楽々と運べるようになります。これも、本当に不思議なことです。
 ですが、これこそが、「疲れた者、重荷を負う者は、わたしのもとに来なさい」ということの意味なのではないでしょうか。エスが与えて下さる「休み」は、何もしないでぶらぶらしていることではなく、魂の疲れが取り除かれることなのです。イエスの愛に立ち返るとき、すべての疲れが取り除かれ、わたしたちの心は新たな力で満たされるのです。
 エスと出会うことで、わたしたちはこれまで以上に大きな荷物を与えられるかもしれません。しかし、その荷物は決して重くないのです。神様のため、人々のために運んでいるのだということ、イエスが一緒に運んで下さっているのだということさえ忘れなければ、わたしたちはその荷物を、軽々と運ぶことができるのです。エスが与えて下さる「軽い荷」を、喜びと力に満ちて運び続けることができるよう、そのために必要な恵みを神様に願いましょう。