バイブル・エッセイ(551)「キリストを着、自分の十字架を背負う」


キリストを着、自分の十字架を背負う
 エスは弟子たちを戒め、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」(ルカ9:21-24)
 パウロは「キリストを着る」と言い、イエスは「自分の十字架を背負う」と言っています。互いに深く響き合う言葉です。自分を守るために着込んだ鎧を脱ぎ捨てて、キリストを着る。自分で勝手に背負い込んだ重荷を捨てて、神から与えられた自分の十字架だけを背負う。それこそがキリスト教徒になるということであり、わたしたちの幸せはそこから生まれてくるのです。
 わたしたちは、自分を守るために分厚い鎧を着こんでいることが多いようです。地位や名誉、権力などを身にまとい、自分を強く見せようとしてしまうのです。弱い自分を守るために、そうしてしまうと言ってもいいかもしれません。ですが、そんな鎧を着こんでいては、決して幸せになることができません。人間は、飾らないありのまま自分を誰かから受け入れてもらうことで、初めて幸せになれるからです。ありのままの自分が愛されることこそ、わたしたちの幸せなのです。自分を守るために着込んだ鎧は、自分と人とを隔てる壁となり、わたしたちを愛から遠ざけ、幸せから遠ざけてしまいます
 幸せになりたいなら、自分を守るために着込んだ鎧を脱いで、キリストを着る必要があります。キリストを着るとは、キリストの謙遜さ、キリストの素直さ、キリストのやさしさを着るということです。ありのままの自分を、相手に差し出すということです。わたしたちは「神の子」として神から愛され、守られているのですから、もう自分を実際以上によく見せたり、守ろうとしたりする必要はありません。お互いが鎧を脱いで出会うなら、そのとき、わたしたちの間に神の子としての絆が生まれるでしょう。「キリスト・イエスにおいて一つ」になることができるのです。
 「自分の十字架を背負う」ということも、これと似ているところがあります。神様から与えられた十字架をしっかり背負うためには、まず自分がいま勝手に背負い込んでいる荷物を下ろす必要があるのです。金持ちになりたい、偉くなりたい、人から高く評価されたいというような自分の思いを実現するために、わたしたちは「あれもしなければ、これもしなければ」とたくさんの荷物を背負い込んでゆきます。その一つでも落とさないよう必死になっているうちに、わたしたちは疲れ果ててゆきます。
 幸せになりたいなら、まず、自分で背負い込んだ荷物を下ろさなければなりません。すべきことはただ一つ、神様から与えられた「自分の十字架」を背負うことだけです。神様は、わたしたち一人ひとりに、大切な使命を与えられました。その使命こそが十字架です。すべての使命の根幹にあるのは、互いに愛しあい、この地上に「神の国」を実現してゆくことだと言っていいでしょう。そのために、ある人には父としての、ある人には母、ある人には教員、ある人には医師や看護師、ある人には大工、ある人には神父としての、それぞれの十字架が与えられるのです。幸せになるためには、その十字架を全力で背負えばいいのです。他のものまで背負い込む必要はないのです。
 キリストを着、自分の十字架を背負うことで、この地上に兄弟姉妹の交わり、神の国の喜びを実現していくことができるよう祈りましょう。