バイブル・エッセイ(422)『第二の死』


『第二の死』
「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(ヨハネ6:37-40)
「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させること」だとイエスは言います。今日は「死者の日」、人間の死と永遠の命、そして復活について考えてみましょう。
 アッシジのフランシスコの祈り、『太陽の讃歌』に次のような一節があります。「あなたのいと聖なる御旨のうちにいる人々は、幸いです。第二の死が、その人々を損なうことは、ないからです。」「第二の死」という言葉がとても印象的だと思います。フランシスコは、人間に第一の死と第二の死があると考えているのです。
 第一の死とは、洗礼を受け、古い自分に死ぬことでしょう。怒りや憎しみ、思い込みなどに縛られた自分、自分のことしか考えない身勝手な古い自分に死んで、すべての束縛から解放された自由な自分、ただ神の御旨のままに生きる新しい自分に生まれ変わる。それが、「第一の死」です。「第一の死」は、洗礼の1日だけでは終わるものではありません。古い自分は日々、蘇って来きますから、日々、古い自分に死んで新しい自分に生まれ変わる必要があるのです。その意味で、キリスト教徒にとって、生きるとは死ぬことです。神のため、人々のため、自分に死んで愛に生きる。自分に死ぬことで、本当の命を生きる。それが、キリスト教徒の人生なのです。
 「第二の死」とは、いつか必ずやって来る肉体の死のことです。「第一の死」を体験していない人、神の御旨のままに生きず、自分の思いのままに生きている人にとって、肉体の死はすべての終わりであり、恐ろしい破滅でしょう。避けがたい死を前にして自分の無力さを知り、絶望に打ちひしがれるしかないはずです。しかし、「第一の死」を生きている人にとって、死は、自分に死ぬことによって生きる日々の延長線上にある一つの出来事に過ぎません。死は決して終わりではなく、むしろ、神に捧げ尽くす人生の完成なのです。「第一の死」を生きている人は、神に自分を捧げるときに、どれだけ大きな恵みを与えられるかを体験的に知っているので、肉体の命を差し出すときにも恐れを感じることがありません。神の愛に信頼し、安らかな心で自分の命を神に委ねることができるのです。その意味で、神の御旨のままに生きる人々は、「第二の死」によって損なわれることが決してないのです。
「芋虫にとっての死は、蝶にとっての誕生」という言葉をご存知でしょうか。中国の故事だそうですが、とてもいい言葉だと思います。芋虫の目から見れば、蝶になることは死、地上からの旅立ちは災いに見えるでしょう。芋虫は、死んだ仲間の芋虫のことを思って、「かわいそうに、あいつはもう地上を這えない」「おいしい葉っぱを食べられない」などと思い、悲しみにくれるかもしれません。ですがそのとき、死んだはずの芋虫は、蝶となって軽やかに空を舞っているのです。甘い花の蜜を吸っているのです。古い自分に死ぬというのも、そういうことだと思います。古い自分にしがみついていては、一生、広い空や蜜の味を知らずに生きることになるかもしれないのです。思い切って自分に死ぬことで、自由に空を舞い、甘い蜜に養われる本当の命を生きることができるよう、そしていつの日か天国に飛び立つことができるよう祈りたいと思います。
★先週のバイブル・エッセイ『二つで一つの教え』を、音声版でお聞きいただくことができます。どうぞお役立てください。