バイブル・エッセイ(899)命の炎

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命の炎

マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」(ヨハネ11:20-27)

 ラザロの死を悲しむ人たちにイエスは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と力強く語り、「このことを信じるか」と問いかけました。どうでしょう。わたしたちは、「はい、信じます」とすぐに答えられるでしょうか。「死んでも生きる」というのは、ちょっと理解しがたい言葉です。どんなに元気な人でもいつか心臓が止まる日が来るし、心臓が止まればそれは死んだということ。心臓が止まっているのに生きているなんて、普通では考えられないことです。イエスはいったい何を言っているのでしょう。わたしたちは、何を信じればいいのでしょう。

 そもそも「生きる」とはどういうことでしょうか。イエスが言う「生きる」というのは、単に心臓が動いていることではなく、命があることだと考えたらいいでしょう。命とは、わたしたちを生かす力であり、わたしたちが創造されたとき、神さまによって灯された愛の炎です。命の炎、愛の炎が燃え上がるとき、そこから喜びや力、優しさの温もりが生まれます。心に愛の炎を灯し、喜びと力に満たされ、周りの人々を優しさの温もりで包んでゆく。それが、「生きる」ということなのです。

 イエスの言葉を信じるとき、わたしたちの心に命の炎が燃え上がります。イエスが、またイエスを通して父なる神がどれほどわたしたち一人ひとりを愛してくださっているかに気づくとき、「わたしは神に愛されている。神はどんなときでもわたしと共にいてくださる。神がわたしを見捨てることは決してない」と確信するとき、わたしたちの心に愛の炎が燃え上がるのです。その確信は喜びと力を生み、愛の炎の温もりは、わたしたちの周りにいるすべての人を包んでゆきます。そのとき、わたしたちは「生きる」者となるのです。

 イエスの言葉を信じ、神の愛を信じる限り、わたしたちの心に灯された愛の炎が消えることはありません。たとえ死がやって来たとしても、神の愛とつながっている限り、愛の炎が消えることは決してないのです。肉体の死の向こう側には、復活の世界が待っています。復活の世界では、わたしたち一人ひとりのうちに灯された命の火は、いまより一層まばゆい光を放つことでしょう。「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがない」とは、そういう意味だと思います。

 新型コロナウィルスが、すさまじい勢いで全世界に広がってゆく状況の中で、わたしたちはつい不安や恐れにとらわれがちです。中には、神に見捨てられたような気持ちになる人もいるでしょう。このような状況の中では、わたしたちはイエスの言葉を信じられなくなってしまいがちなのです。不安や恐れにとらわれ、自分のことしか考えられなくなるとき。神の愛を信じられなくなって絶望し、自分勝手なことをし始めるとき、わたしたしたちうちに宿った命の炎は小さくなってゆきます。「生きているのに死んでしまう」ことにさえなりかねないのです。

 今こそ、イエスの言葉を思い起こすべきときでしょう。「わたしは神に愛されている。神はどんなときでもわたしと共にいてくださる。神がわたしを見捨てることは決してない」と信じて、命の炎を燃え上がらせることができるように。神さまの愛に結ばれて、この試練のときを乗り越えられるように祈りましょう。

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