バイブル・エッセイ(427)『謙遜で、まっすぐな心』


『謙遜で、まっすぐな心』
 神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。/荒れ野で叫ぶ者の声がする。/『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」(マルコ1:1-8)
「わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打もない」と洗礼者ヨハネは言います。「どうせ、わたしなんかは、かがんでイエスの履物のひもを解く値打もない」ということではありません。洗礼者ヨハネの言葉は、自分の使命をはっきりとわきまえた人の口から出る、真に謙遜な言葉です。このような謙遜な心こそ、まっすぐな道であり、その道を通って主がやって来るのだと思います。
「どうせ、わたしなんかは」と口にするときのわたしたちの心は、でこぼこで、曲がりくねっていることが多いように思います。自分がもっと偉くなりたい、人から注目されたいという気持ちが強いときに限って、それができないとひがんで「どうせ、わたしなんかは〜」と言い始めるのです。それは、自分よりも偉い人に対する劣等感だと言っていいでしょう。このような心のとき、わたしたちは、自分よりも地位が低い人に対しては優越感を抱くものです。劣等感と優越感ででこぼこな人の心を、神様の愛が通るのは大変です。そのような心は、人と比べて優れていなければ駄目だと決めつけているので、神様の愛を素直に受け入れることができないのです。仮にイエスがやって来て愛を届けても、「どうせ、わたしなんか愛に値しませんから」と拒絶してしまうことさえありえます。
 それに対して、謙遜な人の心は平らで、まっすぐな道です。謙遜とは、神様の前に跪き、神様から与えられた自分の使命を喜んで受け入れることだと言っていいでしょう。謙遜な人は、自分に与えられた使命に納得しているので、人と自分の使命を比べて比較することがありません。優越感も劣等感もない平らな心で、すべての人の使命を同じように尊敬することができます。そして、人々と協力しながら、自分に与えられた使命に向かって真っ直ぐに進んでいくのです。それが、平らで、まっすぐな心の人です。イエスは、神の愛を携えて、この道を通ってやって来られます。神様からの恵みを受けたとき、謙遜な人は、聖母マリアのように「こんなわたしに、これほど大きな恵みが与えられるなんて」と素直に喜ぶことができるからです。
 洗礼者ヨハネから、本当の謙遜を学びたいと思います。洗礼者ヨハネがすばらしいのは、神から与えられた自分の使命をしっかりとわきまえ、それを受け入れているところです。人の使命と自分の使命を、決して比べないところです。わたしたちは、自分の使命をわきまえているでしょうか。自分の使命を、納得して受け入れているでしょうか。
 それがどんな役割であったとしても、主役はイエスであることを忘れないようにしたいと思います。わたしたちの使命は、自分を主役にすることではなく、イエスを主役にすることなのです。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ3:30)と言った洗礼者ヨハネに倣い、自分が目立つためではなく、ただイエスの栄光のためだけに喜んで自分の人生を捧げられるように。そうすることで、主の道を整え、その道をまっすぐにすることができるように祈りましょう。
★先週のバイブル・エッセイ『使命に目覚める』を、音声版でお聞きいただくことができます。どうぞお役立てください。